
陽が落ちてから随分と時間が経ち、ちょうど真ん中で割れたような半分の月がようやく空に顔を出した頃のことだった。
ウライオス本部の建物の裏側、普段は第二部隊隊員たちが訓練場として使っている広場の片隅にマベは座っていた。
夜の本部には夜間警衛にあたる部隊員が数人いるだけで、ほとんど人の気配はない。昼間には訓練場や休憩所として使われていて賑やかな広場も、半月が見えるこの頃合いにはしんと静まり返っていた。
マベが咥えている煙草には火がついていない。
意味もなく咥えるその煙草がすべてを物語っているように、マベは本当に何もせず片足を投げ出して座って、暗くなった空をただぼーっと見上げていた。
しばらく風の翻る音ばかりが聞こえていたその広場に、鈍い足音が近づいてくる。
その音から察するに、重さがあって身長は高め、そして硬いソールの靴を履いた人物だ。音の主の纏うコートが夜風に吹かれ、その裾からちらりと暗いボルドーが見えた。
「ここに居たのか。何をしている。」
失われた視覚を補うために鍛えた聴覚のおかげで、温度も音程も低めのその声を聴くまでもなく、足音だけで誰が来たのかわかっていた。わかっていながら、マベは立ち上がることも振り向くこともせず、無愛想とも無気力ともとれる態度でただそこに座っていた。
マベの髪が風に揺れ、地面に広がるコートの裾が少しはためく。
「……………この前の仕事で人死が出たんで。まぁ、鎮魂代わりの一服ってやつっす。」
ぎごちなく喋り始めたマベが、ようやく顔だけゲラルトのほうへ向けた。
マベにとってゲラルトは、入隊した頃から一方的に嫌って遠ざけてきた相手だ。
それはゲラルトが部隊長になったあとも変わらなかった。前の隊長が任務中に死んだ直後、マベはほとんど言いがかりに近いような大喧嘩をゲラルトにふっかけ、2人は同じ部隊の上司部下でありながら絶縁したとも言えるほどの仲になってしまったに。
同じ現場に出ることはない。訓練すら一緒に行わない。それからの数年で2人が本部内で言葉を交わした回数も、両手の指があれば足りるほどだった。
そのゲラルトがわざわざ探してまで声をかけてきたことに言い知れぬ居心地の悪さを感じ、マベの表情はますます素っ気なさを増していく。
「……火は点けてねえっすから、ご安心を。」
「そういうところは相変わらずだな。」
ゲラルトがマベのすぐ傍で立ち止まる。マベの視線が向けられるのを察したゲラルトは、ほとんど無意識に視線を別の場所へと動かした。
一方、相変わらずという一語で状況を言い表されたマベは、その言葉の指す意味がよくわからず、元々眉間に刻み込まれた皺を一層深くしてその鋭い目を細めた。
「そういうところって。」
語尾が上がったかどうかもわからない。マベはごく短く、問いかけた。
「あまり感傷的になるなということだ。それと、私は隊員の嗜好品を禁じた覚えは無いが」
一度視線を上げたマベが、顔を背けてふと短く息を吐く。軽く目を閉じると、その脳裏には、ある遠い日に今と同じ場所で交わされた会話が浮かんでいた。のっぺりとした濃い茶色の目が再び開かれると、そこにはどこか浮かない感情が張り付いていた。
「昔、叱られたんだよ。舌とかの感覚が鈍るからって。黙って吸ってたらすっげえ怒られた……」
「舌の感覚か。もうお前はその程度で感覚が鈍ることもないだろう。」
「いや、初心忘るべからずってやつです。俺はちょっと気を抜いたら、人に言ったことも忘れてやらかしちまうんで。………一刀さんとの思い出も、忘れたくねえし。」
その名を絞り出すように口にしたマベの様子に、ゲラルトがほんの少し俯いたように見えた。
マベもまた何か言いたげに沈んだ表情を浮かべていたが、直後にゲラルトが隣に座ったことに驚いて、意外そうに視線だけを動かした。
「懐かしいな。仕事が終わった後に悪いが、仕事の話をしにきた。」
「仕事っすか?」
「次の建国祭の件だ。お前が抑えるつもりのオークション会場の件だが、一部私の任務に関わる。私も出るが問題は無いな。」
申し訳程度に語尾が問いかけになっているだけで有無を言わせるつもりが全くないその口調に、普段のマベなら全て聞き終えるよりも先に否定の言葉を被せていたに違いない。
マベはその言葉の内容に驚き、一瞬時が止まったかのように動きを止めたあと、思わず身を乗り出していた。
「隊長が、俺と!?他の奴等は!?」
「何だ、不満か? 今回の件は特殊だ。少人数で行く必要がある。」
「不満なわけねえだろ!?ずっと、………ッ、………」
身を乗り出したままのマベが顔を背け、言葉を詰まらせる。
いつの間にか落としていた火の点いていない煙草が、地面についた手の横で少し転がった。
「………、………隊長。…………今この時だけ、同僚だった頃のように話しかけてもよろしいでしょうか?」
「お前はいつも大して敬語を使わないくせに何を改まっている。…………どうした。」
そう言う間も、ゲラルトは全くマベと目を合わせようをしなかった。
どこか遠い所を見ているようなその目がどこを見ているのか読み取ることはできなかったが、マベは完全に向き直って、すぐ隣に座るゲラルトの顔を真っ直ぐに見つめた。
5年もの間つまらない意地を張り、ゲラルトに「隊長」と呼びかけることすらできなかった。
それすら些細な事かのようにいつもと変わらない様子で振る舞うゲラルトをどう捉えたのかはわからないが、マベは一度目を閉じて頭を下げたあと、緩やかな動作で顔を上げた。黒眼鏡の奥にある塗りつぶしたような光のない目がゆっくりと開かれる。
「5年前にお前に言われた通りだよ。」
マベは自嘲するかのように息だけで笑った。
「俺は自分の仕事で助けられなかった奴がいると、いまだにこうやって滅入っちまうし、つい感情的になってその場にいる奴等全員殺しちまった。」
話しているうちに徐々に下がった視線が、ついに地面を見つめた。懺悔のように重く響くその言葉を夜風が攫っていき、言葉が途切れた。
「俺は甘ちゃんで、覚悟が足りてねえ。お前に偉そうに言っておきながら、このザマだ。」
「感情のままに殺すのは、精神に未熟さがあるからだ。」
「………そうだ。俺は、未熟だ。」
マベは自分に言い聞かせるかのようにゲラルトの言葉をそのまま返すと、僅かに目を細めた。
5年前のあの日に言われた言葉が、まるで昨日のことかのように鮮明に思い出される。あの時は精神面の脆さを指摘され、咄嗟に否定し反抗したが、今は確かにそうと自覚している。今のマベの心は驚く程に穏やかだった。
「あの時、お前が一番辛いのはわかってた。頭ではわかってるつもりだったのに、俺は自分のことしか考えてなかった。……今更だよな。」
「本当に今更だな。過ぎた話だ、気にするな。」
目を伏せ気味にしたゲラルトがふと吐き出した息は、ほんの少し笑っているようにも聞こえた。その様子に、紡がれた言葉に、マベは動揺していた。
育ててくれた親を失ったばかりのゲラルトに対して、隊員が動揺するから気を遣えなど、冷静に考えなくとも言うべきではなかった。
生半可な謝罪では許されるはずがない自身の罪がそっくりそのまま罰となり、心に刺さったまま後悔の念は積み重なっていくばかりで、とうとう5年も経ってしまった。
それなのに、目の前のゲラルトはどうだろうか。たった一言、あまりにも簡素に返されたその言葉がどのような気持ちで吐き出されたものなのか、マベにはわからなかった。
視線を外したままのゲラルトは、動揺するマベを他所に言葉を続ける。
「あの時お前は、全員殺す必要は無いと私を非難した。私には、その理由を話すことを許されていなかった。それをお前に言えれば、あんな風にはならなかったのかもしれない。」
「ちょっと考えりゃわかることなのにな。隊長にだけ極秘命令が下されるなんて、当たり前くらいのことなのによ。」
深く項垂れたマベの顔に後悔が滲み、上げかけた顔をすぐにまた下ろしてしまう。しばらくそのまま俯いたまま、表情と同じか、それ以上に暗く沈んだ声で続ける。
「お前は、一刀さんを亡くしてから、ずっと目の前にあるものを追いかけてたんだな。」
ゲラルトは遠くを見つめたまま、返事をする代わりに一度だけ頷いた。
決して俯くことのない視線。その整った精悍な顔立ちには、揺るがない決意が見えるようだった。
「立ち止まるわけにはいかなかった。私に与えられた任務は、一刀さんから引き継がれたものだったからだ。今思えば、もう少し言葉を選べたとは思うが、あの時の私にはそれができなかった。」
マベの頭のなかで、5年前のゲラルトの言葉が頭の中で再生されていき、その全てが繋がっていく。
あの時ゲラルトが涙ひとつ見せなかったのも、誰にも心中を語らなかったのも、組織のため、ひいてはその組織を率いてきた前隊長への恩に報いるためだったとすれば。
「じゃあ、おれ……、一刀さんの最後の仕事に……、それをやり遂げようとしてるお前に、あんな、…あんなことを……」
うまく言葉が継げず、手が、唇が震える。
動揺が隠せないマベを気にする様子もなく、ゲラルトがいつも通りのあまり感情の乗らない声色で続ける。
「私はあの人とは違う。人格もやり方も、人との接し方も。だが私は、一刀さんが遺した任務をやり遂げた。……ちょうど、お前が見舞いだと言って私に無理矢理リンゴを食わせて帰った時だ。」
はは、と声を出して、今度ははっきりとゲラルトが笑った。その声に驚いてはっと顔を上げたマベが、想像していたよりずっと優しげに笑うゲラルトの横顔を瞬きもせずに見つめた。
決して目を合わせることのなかったゲラルトがようやく隣に座るマベの方を向き、2人の視線がぴたと合った。ゲラルトの透き通る青い瞳が、月の光を受けていつもより暗く穏やかな群青に染まり、マベの見えない目を射抜くように真っ直ぐに見つめた。
「苦労をかけたな。俺を、……許してくれるか?」
穏やかに笑うその表情に、許してくれるかという問いかけに、マベは絶句した。胸の内に色んな感情が一度に押し寄せてきて、5年の間に積もり積もった確執も、心に刺さったまま鈍く痛む後悔も、全てを押し流していく。
「………お前は、何も悪くない。」
そう返したマベの声は、震えていた。
「あの時俺は、他の隊員が動揺してるって言ったな。違うんだ、本当に動揺してたのは俺だ。俺だけ取り残されて、お前だけ何か答えを見つけて超越しちまってるように見えちまったんだ。俺がここに流れ着いたのは、あの人のお陰だ。そう思ってずっと背中追いかけてきたのにって……ああクソ!」
段々と語気が強くなっていき、ついに地面を拳で叩いた。叩いた拳が感情の昂りを抑えきれずにぶるぶると震える。
「本当に、っおれは、自分のことばっかで…っ…!!」
たまらず顔を背けて黒眼鏡を外し目を覆うが、指の間から次から次へと涙が伝って手の甲から地面へ落ちていく。謝らなければと何度も何度も考え、ついに言えなかったその言葉を、ゲラルトから言われるとは夢にも思わなかった。
ゲラルトという男は、ただ強いだけではない。村を救うために視力を失い、王都へ来て人間の薄汚い本性に気付き腐ってしまったマベを救いあげ、今日までの居場所を作ってくれた前隊長と同じで、人の上に立ち、おおらかに受け入れ、正しい方向へ導く度量の大きさがある。
どうしてそれに5年も気付けないでいたのか。いや、もうとっくに気付いていたはずなのに、どうしてそうと認められずにいたのか。色々な考えがマベの頭を駆け巡っていく。
「おいおい……、本当にお前はすぐ感情的になるな……。」
「うっせえ!!お前、がっ……泣かない代わりに…ッ、…俺が泣いてンだろうがよっ……!!」
マベの言葉が、いつかミラが言ったのとほとんど同じ内容だったことに驚いたゲラルトが、ほんの少し言葉を止めた。
「あの人に救われなければ私はとっくに死んでいた。そうやってお前と私が出会ったというのに5年もろくに口を聞いていなかったのだから、一刀さんにも謝らなければならないな。」
マベが目を覆っていた手を離すと、見えない目から涙が零れ続けるが、構わず両の手をついて頭を下げ、嗚咽を飲み込みながら背中を震わせる。
「っ、ゥ……っ、ごめん…っ、ごめんなゲラルト…ッ…ごめん…!!一刀さんもごめんっ……本当にごめん…!!許してくれなんて、言わねえから……っ……」
「いや、許す許さないの前にそもそも私は怒ってはいない。さっきも言っただろう、過ぎた話だと。」
「っ……、…たい、ちょ……隊長っ………!」
マベはきっと”二人”のことをそう呼んだのだろう。
袖で目を擦り、ぐっと嗚咽を押さえつけるマベの背中を、ゲラルトの大きな手がトントンと軽く叩いた。
「まったく、酷い顔だな。」
「うっせえな、自分は綺麗な面してるからってそりゃねえだろ?俺はもう10年近く自分の顔も見てねえんだぞ。」
恥ずかしそうに後頭部を掻いたマベを見て、ゲラルトが少し気まずそうに話題を変える。
「あー……、お前、あの時の話、ミラにしただろ?」
「………え?………。………あ。はい。しました。」
何とも間の抜けた答えに、ゲラルトが僅かにため息をついた。
「ミラにお前と話し合えと言われた。あいつに言われると無視するわけにもいかなくてな。」
「隊長、あの子のこと気にかけてますよね。俺としてはあの子に背中を押してもらった形になるんで……。」
「ミラは私の刀の記憶を辿って、一刀さんの最期を”見た”唯一の人間だ。全て知った上で私たちに歩み寄れと言ったわけだ。」
マベは少し前にミラとした会話を思い出し、胸に下がったドッグタグを掴んだ弾みで、2枚連なった金属製の板が小さく音を鳴らした。
このドッグタグから5年分の過去を遡り、そのショックから膝をついて頭を打ち付けたミラの様子を思い出して少し眉を顰めると、マベは柔らかに目を閉じた。
ゲラルトの刀から辿った二人の記憶が、もっと悲惨なものだということは簡単に想像ができる。でも、あの気の強いミラのことだから、ゲラルトに脅されたところで過去を見るはずはないだろう。彼女は間違いなく、すべて理解した上で自分の意思でその過去を視たのだ。
自分たちが歩み寄るきっかけをくれた、ゲラルトに過去を断ち切る決意をさせた、あの奔放で危なっかしい若い”彼女”に頭が下がる思いがして、マベの表情が自然と和らぐ。
「………隊長は、ミラを通じてあの人の最期がどうだったか知ったんですね。」
「気になるなら聞いてみるといい。まあ、お前はまた泣くだろうからやめておいた方がいいだろうな。今日だけにしておけ、こんなことは。」
マベがようやく、ふと息をもらすように笑った。
「それと。……病院では聞けなかったんだけど、どうして俺に隊長の座を譲ってもいいなんて思ったんですか?他にもいるでしょ、良さげなのが。」
ゲラルトはいつものあまり温度のない表情でマベをじっと見つめた。
さっきまでの穏やかで暖かな姿はそこにはもう無く、鋭い冷たい青の眼光と黒いコートに身を包んだ引き締まった身体が、国のために命を燃やす隊のトップに立つものに相応しい威圧感を持って、そこに在る。
「その答えは自分で見つけろ。この5年間を振り返れば自ずと理解できるだろう。」
「……。………5年間。」
マベの頭の中には、5年前のあの喧嘩の翌日からあまりの悔しさに身震いしながら感覚を調整しなおし、術式の制度を高め続けた日々が浮かぶ。
前隊長に拾われて入隊し、田舎の村では神童扱いされていた自分でも簡単には敵わないような人間が、世には溢れていると知った。それでもマベはそれらの術師と張り合えるほどの実力があると自負していたが、隊にはひとつしか歳が変わらないくせに何もかも悟ったかのように涼しい顔をしたゲラルトがいて、いつも特別扱いされていた。
そして5年前のあの日、漠然と感じていたその差をまざまざと見せつけられ、マベの人生は変わった。
「隊長に負けたのが悔しくてひたすら鍛錬して仕事してましたけど」
「……そういうことだ。」
ゲラルトが静かに頷き、ゆっくり立ち上がって背を向ける。風に吹かれたコートの裾が少し揺れて布地が音を立てた。その先の言葉が続かないのを察したマベが泣き腫らした目を細めて笑った。
思えばあの時からマベはずっと、ゲラルトの背中を追い続けてきた。
この人にいつか勝つために、そう思って続けてきた気の遠くなるような鍛錬の結果、マベはあの時よりもずっとずっと強くなった。
「……らしいっすね。さあてと。5年ぶりの同時出撃に備えなきゃな。」
自分に言い聞かせたあとゲラルトに続いて立ち上がり、コートの裾をはたく。ゲラルトはその間に建物の方へ向き直り、マベに背を向ける。
「あと5年。死に物狂いで努力してみろ。」
それだけ短く言うと、ゲラルトは一度も振り返らずに歩いていった。その素っ気ないともとれる態度に、マベがハハッと声を出して笑う。
その口元には普段通りの悪人面の笑みが零れていた。
「……3年でクリアしてやるよ。」
ゲラルトに少し遅れて続いたマベが、不意に立ち止まる。
「また二人で出られるって聞いて、嬉しかったんだよ。狂犬が尻尾振っちまうなんて、恥ずかしくて言えねえが。」
さっき濁した言葉をゲラルトには聞こえない距離で呟くと、しまっていた黒眼鏡を取り出した。
それをかけ直すと、マベ再び歩き出し、穏やかな風の音とともに夜の闇に姿を消した。
—「喧嘩編」完