03.過去視

「…………とまあ、俺の戦い方はこんな感じだ。タイマンも張るけど、どっちかっつーと対複数のほうが慣れてッかな。」

この国の誰もが知る金ボタンの黒コートを着崩した黒眼鏡の男――マベ・マヘスは、斜め向かいに座る人物に話しかけた。

イシスアセト王都の大通りから2本裏の通りにあるこの店は、彼がその黒いコートを着るもっと前から懇意にしている会員制クラブだ。彼の仕事を理解しているオーナーが特別に用意した個室は、夜の店らしい豪奢な調度品で飾られ、照明はどことなく薄暗い。
乱雑に酒瓶や料理を広げてマベが楽しそうに話す相手は、短く切りそろえた髪をピンクと黄色のグラデーションに染め、光沢のある黒に蛍光色のアクセントカラーの入ったブルゾンを着たミラだった。
ミラは酷くつまらなさそうな顔でグラスに入った酒を1口、2口と飲み進めながらマベが話す様子を見ていたが、彼の言葉が一旦区切られたのを見てようやく口を開いた。

「へーーーー、すごーい。マベさんが入ってくる直前まで部屋にいたから音は聞こえたよ。わー派手にやってるなー、って。」

「うわ〜超興味なさそうだなお前!!そういうところ好きだわ!!」

その話題に爪先程の興味も持っていないことを少しも隠そうともしないミラを見て、マベがけらけらと笑った。
2人はマベの所属するウライオスの隊長であり、ミラのビジネスパートナーであるゲラルトに紹介される形で、とある人身売買会場で仕事をひとつ終えたばかりだ。ミラは情報屋らしくその場でやり取りされる情報を集め、マベは国王直属部隊の部隊員らしくその場に集められ売り物にされた人達の救助と、その悪事を企てた悪党共の処分を行った。
互いの目的を滞りなく終えるために2人は愛人か恋人のふりをしてその場に潜り込み、そして多少の誤算に目を瞑ればおおむね狙い通りにその目的を達成した。
2人がこの些か雰囲気の良すぎる小部屋で飲み食いをしているのは、その仕事を終えた後の打ち上げという名目だ。
完全に”オフ”であるこの場にマベが隊服を着て現れた時、ミラはその目立つ姿にほんの少し嫌な顔をしたが、マベが個室を用意していたことでその不機嫌は簡単に消え去ってしまった。

ミラは斜め前の席に座る大柄な男の実力をいまだに測りかねていて、この人を信用すべきなのかどうか決めきれずにいたが、”札付きの狂犬”と呼ばれる程の”褒められた振る舞い”をする男が思いがけず屈託なく笑ったことに驚いて、整った眉をほんの少し顰めて彼の顔をじっと見つめた。

「興味ないんじゃないけど。並の魔術師ならともかく、アンタらはぶっ飛びすぎててさあ、説明されてもよくわかんないし。」

マベが透明な酒で満たされたグラスを片手で持ち上げ、目を細めた。急に互いの視線がぴたと合い、何か見透かされたような気がしてミラは内心ドキリとしたが、相当な場数を踏んできた彼女は、心の内を微塵も感じさせない完璧な顔でグラス越しに笑って見せる。

「で?俺が来る前に色んな奴から金品巻き上げてトンズラしたわけね。どうりで押収した金の額面がやけに少ねえわけだ。……ま、ほどほどにしとけよ?」

「いいじゃん別に。アンタら押収した金で生活してるわけでもないんでしょ?ちょっとくらい私に分けてくれたって。」

予想通りマベは、主犯格の男が荒稼ぎした財をミラが持ち出したことを指摘する。
ミラは深く溜息をついたあと、いかにもわざとらしく不機嫌そうな表情で唇を尖らせ、目の見えないマベにもそうと伝わるように派手な色に塗った爪の先程でコツコツとグラスをつついた。

「連れてこられた女子供は、そうはいかねえ。あいつらがああいう場所でやり取りする金の一部は、人質やその家族から巻き上げたもんだったりするからな。判明した分は返してやってる。」

「マベさんのくせに何カッコつけたこと言ってんの?私の身体平気で触るただのスケベじゃん。あーやだやだ、これだから国家公務員は。隊長にいいつけてやろ。」

やれやれとわざとらしく肩を竦めてみせるミラがその人の存在を口にした瞬間、それまで笑っていたマベの表情が確かに曇り、その顔をうつむき加減のミラの大きな両目がしっかりと捉える。
ほとんど空になったグラスをマベがテーブルに置くのを目で追ったミラは、すぐに視線を上げ、黒眼鏡の奥の塗りつぶしたように濃淡のない目をじいと見つめた。

「…………あ?ああ!すまんすまん、あれはその、演技が行き過ぎた。ホント悪かったって。ゴメン。」

僅かな変化を無かったことにして喋り始めたマベに、ミラが少し首をかしげた。うんうんと何度か納得したように頷いたあと、腹の底にある思考の一切を隠してしまうほどの隙のない顔でミラは笑ってみせた。
きめ細やかな頬に片手を添えて頬杖をつき、視線は一切離さない。動作のひとつひとつを全て逃すまいと構えるその様子は、まるで目の前の男を監視しているようだった。

「パンツはいてないって知ってて触んないでよね。あの場で嫌とも言えないしさぁ。」

「悪かったって。本当ごめん。引っ叩いてくれてよかったんだぜ?」

「あんまりそんな謝んない方がいいよ、何か大の大人の男がみっともないじゃん。怒ってたら誘われてこんなとこついて来ないし。」

「いや、……みっともなくても謝らねーといけねえときってのはあンだよ。特に、大人になったらな。」

またマベの動作が止まる。
グラスの中身を見つめる目が、それを満たす液体を見ているのではないこと。彼の関心が向いているのが”今この部屋で行われている会話”ではないこと。ミラはそのことに気付いているが、果たして彼が見ているのがどれほど時を遡った先なのか、まだ検討がつかななかった。

「ふーん?私まだ22だけど、それくらいの歳になったら少しは反省する人生歩めるかなぁ。」

「は!!??22ッ……、」

明らかに動揺して顔を上げたマベの視線と、ミラの視線がかち合った。
その反応からマベがミラの年齢をもっと高く見積もっていたことは間違いないが、それほど動揺する理由はこれといって見つからなかった。
成人しているのだから男と2人で個室で酒を煽ろうと、恋人のふりをして尻を触られようと別に大したことではない。しばらくその理由についてあれこれと思考を巡らせたミラの頭に、もしかしたらこの男の本質は普段の振る舞いから想像される人物像とは異なるのではないかという考えがよぎる。

「は?何その反応? 私、家出たの13の時だから。」

「はアァ!?おま、家出少女だったのか。……。どうりで肩肘張って生きてるわけだって思った。」

「何それ。急に大人ぶらないでよ。」

先程まで一挙一動を逃すまいと見つめていたミラの視線が外れた。
ついさっき行き着いた推測とともに何か思い出したのか、複雑そうな表情をしてどことなく気まずそうに少し顔を背ける。

「普段あんな感じなんだね。」

「あんな感じって、言われてもなあ。」

「……意外とちゃんとした奴なんだなって。」

「……。………ちゃんとはしてねえよ。今朝も嫌な夢から覚めた途端に二日酔いコースだったしな。」

ミラは言った直後に少しばかり後悔したのか、急にむすっと不機嫌な顔をして、グラスを差し出した。
マベは少し悩んだあと残っている酒瓶のうち度数が比較的低いものを片手で持ち上げる。差し出されたグラスに酒を注ぎかけたところで手を止め、ふと目線をミラへと向けた。
床を見つめたままのミラが、マベの手を上から掴んでグラスの中を満たす。黙ったまま注いだ酒を飲み干し、煽った酒が唇の端から溢れたのを親指で拭ると、急に身を乗り出してにやりと笑った。

「で?その大人なマベさんが謝んないといけないのって、誰のことなのかなぁ?」

「……お前。いつからわかってた?」

マベが目を細め苦々しい顔をする。
対するミラは、両頬を支える形で机に両肘をつき、目を細めてにっこり笑い返した。
人を転がし情報を吸い上げることで生計を立てているミラは、人の些細な変化にもすぐ気付いてしまう。今日もマベと会ってかなり早いうちから、どことなくいつもと違うマベの仕草や声色に気付いていた。

「え~?だって、隊長の話した時になんか動揺してたしい、急に『謝らないといけねんだよ、大人になったらな』とか言うからさぁ~。なになに?隊長怒らせるようなことしたの?最近?」

間でその口調を真似してからかうミラをじっと見ていたマベが、短く溜息をついた。怒るわけでもなく、呆れているわけでもないその表情の奥にはどんな感情が隠れているのか、ミラにはわからなかった。僅かに首をかしげた彼女は、またじっとマベの黒眼鏡の奥を覗き込む。
マベは、さっきミラがしたのと同じようにグラスの中身を一気に飲み干し、やや乱暴にテーブルに置いた。硬い音が室内に響き渡り、部屋の空気が変わる。元々ふたりだけの室内が重苦しさを増したように、さらにしんと静まり返った。
思いがけずその目が真っ直ぐ向けられたことに多少驚きはしたものの、ミラはここから始まる心理戦に負けるわけにはいかないと直感した。この男に勝ったところで一銭の金にもならないと言うのに、なぜそう思ったのか自分自身でも説明がつかないまま、その視線を真正面から受け止めた。

「…………………聞きたいか?」

「私は聞きたいけど、聞いていいの?」

「ああ。構わない。長くなるし、きっと言葉が足りずわかりにくいことも多いが、いいか?」

思っていたより優しい声色でそう問いかけられたミラは、真意を測りかねて暫く黙りこくった。
そのままどれ程の時間が流れたのかわからないが、ミラは急に上機嫌に笑って、声のトーンをひとつ高くした。

「まあいいや。聞く聞くー♡ でも聞くのつまんねーってなったら途中で帰るね♡」

「お前、情緒不安定気味って言われたことねえか?」

「え、なに、情緒不安定って普通に失礼だよ。」

むすっとまた不機嫌な顔をしたミラに困ったような顔で笑い、小さくごめんと言ったあと、マベは話を続けた。

「今から5年ほど前だな。俺と隊ちょ、……”ゲラルトさん”はまだ同僚同士でな。俺は入隊当初からあの人がいけ好かなくて、よく突っかかってんだが」

「はー、わかるわかる、いけ好かないよねぇ。私もあのスカした顔、一発殴りたいって思ったことあるもん。」

「一発殴れればまだよかったんだがな。あの人とやり合えるような強さは、俺には無くてよ。あることをきっかけに俺は猛烈にあの人が嫌いになったんだ。」

「あ、もしかしてめちゃくちゃやり返された?私を紹介するくらいだからずっと仲良かったのかと思ってた。」

マベはテーブルに両肘をついて手を口元で組み、どこか遠いところを見ているような表情をしていた。

「結論から言うとそうだ。俺が喧嘩を吹っかけた。理由は、」

次の言葉を口にしようとして、息を吸ったが、そこで止まったまま口を噤む。
しんとした部屋にまた静寂の時が流れる。マベが吸った息をそのままふうと長めに吐いて、一度目を伏せる。

「………。………ミラ、今から話す内容を聞く前に、ひとつ条件をつけてもいいか?」

「ああ、うん、いいけど、何?」

「この話を最後まで聞いたら、”笑え”。嘲笑うか蔑むか、そういう笑いだ。誰を笑うかはもうわかってんだろ。………いいな?」

マベが、見えていないとは思えないほど鋭い目つきでミラを見た。あまりに真剣な様子に張り詰めた空気が漂うが、ミラは大して気にとめずいつもの様子で足を組み替え、すこし気怠そうに姿勢を崩した。

「いいよ。どうせ私に隠し事なんてできないんだからさ。今日はそういう気分なんでしょ。付き合ったげる。」

「今朝見た嫌な夢ってのが、まさにその喧嘩のときのやつでね。ゲラルトの前の隊長、あいつの親父さんが死んだ後、あいつは変わった。元々感情を出さねえ奴だったが、そんなレベルじゃなかった。戦い方も鬼かそれ以上ってくらいでな。」

ミラの表情が少し曇り、何か言いたげに唇の先を動かしたが、それが言葉になることはなかった。ん、と小さく声を漏らしただけで大した相槌も打たずに話の先を促したミラを少し気にしたのか、マベ自身も重苦しい空気を吸ったように視線を落とした。

「俺は生前の一刀さんから、必要以上の殺しはするなって言われたことがあってよ。それを一切無視したゲラルトのやり方と、誰も顧みねえ態度に腹が立ってた。……そして5年前。あいつと二人で任務に就いたとき、とうとう俺は我慢できなくなった。」

ミラは、ゲラルトの刀から過去を遡り、彼と彼の父親の過去を見た時のことを思い出して表情を歪める。
前隊長の死が彼の心にどれほど深く傷を残したのか、ミラはよく知っている。それ故に誰にも心を許せなくなってしまったことも、一切の感情を失ってしまったことも、全て理解している。
“あの人”が死を選んだ瞬間のことを思い出して胸をぎゅうと掴まれたような嫌な感じを覚えたミラは、それを悟られないようにすぐに顔を背けて俯くと、机に置いていた方の手を無意識にぎゅっと強く握りしめた。

「続けて。」

「敵を皆殺しにしたあいつに、俺はやり過ぎだ、もっと周りを見ろって忠告した。…忠告だなんて体の良い言葉で、本当はただ自分の感情をぶつけただけだがな。当然向こうも、俺の甘さや力不足を指摘してきやがった。…あとはもう互いに罵り合いだ。立ち去ろうとするゲラルトに、俺は勝負を挑んだんだよ。」

マベが手を組むのをやめて窮屈そうに座り直した。当時のやり取りがその脳裏に浮かんでいるのだろう、眉間に深い皺を寄せて苦々しい表情を浮かべると、ふと自嘲気味に笑った。

「………結果は、最初に言った通りだ。」

「2人とも、前の隊長が死んで気が滅入ってたんでしょ。今の私より年上だったくせにさ、ほんと、バカみたい。」

ミラは口ではそう言いながら、馬鹿にする様子はなく、ちょっとだけ呆れたような笑いを漏らした。

「俺はあの人とは違う、とかなんとかよ。一番カチンと来たのは『お前の戦い方は感情的で正確性に欠ける』… あーーっ今思い出してもクソ腹が立ってくるぜ」

「ふふっ、何それ。似てないし。」

ゲラルトの真似をしたマベに、頬杖をついていた手を口元に持ってきてミラが笑う。
駆け引きをしていないときは意外と上品な様子で笑うんだな、とでも言いたそうなマベの表情は、言葉とは裏腹に過去の出来事を怒ったり気にしたりする風ではなかった。
この話を始めた時にこの部屋を包んでいた重苦しい空気も、ミラの軽すぎず重すぎない相槌が和らげ、いつの間にかどこかに散ってしまった。

「大人の男ってよ、変なとこで意地張るんだよ。」

「ねえ、悪かったって思ってるんなら素直に謝りなよ。私にはどーでもいいことでもすぐ謝ろうとするくせに。」

「………それは、………。…………そうなんだけどよ。」

「過去のことずっと心に溜めとくのってよくないよ。どっかできちんと消化しないと、前向いて生きていく足枷になるから。」

「気が立ってたんだろうな、あっちも。俺がそういうのに気付いたのはだいぶ後になってからだった。なんせこてんぱんに負けたのが悔しくて悔しくて、…………ずっと一人で鍛錬ばっかやってたから。」

マベが何か思い出すように片目を細める。僅かに空いた言葉の間に色んな思いが詰まっていたのは、そうと確かめなくてもわかる。
恐らく、相当な努力を積み上げて今があるのだろう。ミラがふふ、と小さく笑うと、マベもつられたように優しく笑った。

「まあそしたら見事に謝るタイミング失って、そっからまたちょっとあって、今に至るわけよ。………な?馬鹿な話だったろ?」

「まあ、あの人も人間だから。色々思うところはあるんじゃない。」

「当時の俺にはそれがわからなかったんだよ。親父さんが死んでなんでそんなに頑なになんのかがサッパリわかんなくてよ。他の隊員の気遣いにも気付かねえような態度だし、…いや、これも偽善だな。もっと自己中心的な気持ちがあったからだ。けどよ、もう俺はあいつのこと認めてるし、あいつも、」

「もー、ほんっと馬鹿だなぁ。なんでわかんないの?あの人は隊長にとっては唯一の………」

「俺にとっても、一刀さんは恩人だったからだよ。」

マベが暫し目を閉じて何かに思いを馳せる。
その短い言葉の中にある後悔を感じ取ったミラは、何も返さずに次の言葉を待った。

「だから笑ってくれって言ったんだ。あいつの失ったものに比べりゃ、俺の小さなプライドなんざどうだっていいことなのによ。悪いな、変な話に付き合わせてよ。」

「ん、いいよ。でもさあ、」

「ん?何だよ。」

ミラが急に声色を変え、椅子から立ち上がる。
置かれたグラスに手を伸ばし、手のひらで転がしていたマベが立ち上がったミラを見上げるが、ミラは大して気にする様子もなく歩み寄り、隣の椅子をひいて急にそこに座った。

「その話、まだ半分だよね?大事なとこ話してない。」

「は?いや、もうねえよ。これで全部、だ…。」

隣までやってきたミラをじっと見つめていたマベがぎょっとしたのを見て、すっかり攻勢へと転じたミラは腕の辺りをマベの肘でつんつんと小突き、にやにやと嫌な笑みを浮かべた。

「またまたぁ~、その話だけだったら隊長の話が出ただけであんな顔しないでしょ? ほらほら、正直に言いな。ひっどい負け方したんでしょ。」

「………ぃっ、……ああそうだよ、そりゃあもうコッテンパンのギッタギタにな!俺はあいつの魔術がどういうものかも知らなかったからな。………これでいいだろ?」

小突かれたマベは明らかに嫌そうな顔をして、軽く舌打ちをしてから顔を背け、腕組をする。
背けられた顔を覗き込もうと前のめりになったミラはますます上機嫌な顔でぐいぐいとマベに近づく。すっかりペースに飲まれたマベは、その時にミラが一瞬視線を落として何かを確認したことにも気付けなかった。

「あ、いい顔するねぇ~♡ 何が「これでいいだろ?」なの?いいわけないじゃん。ねえ、教えてよ。ねっ?」

「おい。あんまりくっつくなよ?触られんのヤなんだろ?」

「触られるのは嫌だけど、触るのは嫌だとは言ってないよ?」

「教えてって言われてもなァ…、俺もどう説明すりゃいいかわかんねえんだよ。感覚はよく覚えてんだけどな。」

「感覚を覚えてる?あー、もしかしてアレまともに食らったの? ………気持ち悪いよね、何か嫌な酔い方したときみたいな。」

「……モロだよ。死ぬかと思ったぜ。イヤな感じではなかったな。あれはむしろ、……とーにーかーく!これ以上は俺の口からは言えねえ。」

「ほーう、お口で言えないなら、どこから教えてもらおっかなぁ?」

ぴたと動きを止めたミラがまた視線を落として何かをじっと確認した。
意地悪く笑って見せ、ミラの手がマベの首元に伸びる。指先で胸に下げているドックタグをひっかけ、するすると手繰り寄せていくと、一連の動きを気に留めるふうでもなくされるがままになっていたマベが、ミラの手を掴んだ。

「外すなよ?こいつは大事なモノだからよ。」

「大丈夫、外す必要ないから。」

ミラは手を掴まれても別に驚く様子もなく、金属のタグ部分を手中に収め、ひんやりと冷たさが伝わるそれを握りしめた。タグを握った手を掴むマベの手に、ミラのもう一方の手が重ねられる。
マベがどこか上の空で笑って俯いたが、その感情もまるっきり無視してミラが目を閉じる。

「……いつもはこんなことしないんだけどね。」

部屋は静寂に包まれ、2人が呼吸をする音だけが聞こえる。
ミラの瞼の裏には、マベのドッグタグが見てきた過去の日々が映し出される。

少し前、金髪に赤いドレスの女性と人身売買会場で仕事をしている
会場に集まった主催者と客は、1人残らず彼が切り刻んだ。

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それより前、拉致された子供を抱えたまま戦闘を行い、無事救出。

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もっと前、捕らわれていた女子供は痩せ細って全員死亡。

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いつのことかもわからない。
途切れ途切れの息、荒れ狂う風、制御しきれない術式。

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目をつぶったままのミラがたまに顔を顰める。ふう、とたまに大きく息を吸って吐く。そんなことを繰り返して、しばらく時間が経った。

ミラが急にばっと手を離し、驚いた顔でマベの顔を見上げた。その視線の先に居たマベは気持ちが沈みきったような顔をして、自分の親指の爪を齧っていた。

「………………おう。終わったか……。」

「……ははっ。ごめんねえ、あんまり気になるから”見ちゃった”。」

「……ハ、ハハハッ……笑えるだろ…? あー今思い出しても気色悪ぃ。二度とゴメンだぜ、アレはよ。完全に、……俺の負け。だろ?」

マベが思いの外優しい顔をしてミラを見つめる。
ミラが物から過去を辿って見る能力を持つことは、仕事をするにあたってゲラルトから伝えられていたはずだったが、そういえばろくろく聞きもせずに生返事で返して隊長室の扉を蹴破って出ていってしまったことをふと思い出す。

「……そうだわ。お前、そういう力を持ってんのな。」

「そうだよ。今日が会うの最後かもなーって思ったから、もういいかって。ごめんね、勝手に見られるの嫌だよね。」

「お前のやり方は多少強引だったが、最終的に許可を出したのは俺自身だ。気にすることはねえ。」

「マベさん、やさしーね、そんなんで足元すくわれない? あぁ、ちょっと疲れたなぁ……、色々エグいもの見ちゃった。」

マベの隣から元いた斜め向かいの席に戻ろうと、ミラが机に両手をついてゆっくり立ち上がるが、そこでぴたりと動きを止めた。

「ああ。でもあの喧嘩がなかったら、また人生違ってたんだろうなとも思うよ。俺は優しくする相手は選ぶ。誰彼にも優しいわけじゃないぜ。…特に国賊にゃあな。」

「そりゃそうでしょ。今のでわかったと思うけど、私は利用価値ある人間なの。優しくしといて損は無いと思うよ。」

そういったミラの足は小さく震えていた。駆け足で遡った彼の5年分の過去の記憶は、あまりにも悲惨で見るに堪えないものだった。
肝の座ったミラとはいえ、それらを見ることの精神的負担は大きく、手足の先や頭の先からじわじわと冷たい感覚が広がってくる。

「アンタが見えない奴でよかった。やっぱり座ろ……、いや、どうしよ、」

小さくぶつぶつと言っていたミラの膝ががくりと折れ、その弾みで机の角に頭を打ち付け、大きな音が響いた。

「…………お、っ…すっげえ音したぞ!大丈夫か!?」

「いっ………… たぁ………………。大丈夫?私の頭割れてない?」

マベの大きな手がミラの背中に添えられる。咄嗟に手を置いてしまってから、警戒心が高いミラにそうするのはよくなかったかと思い直したが、ミラはその手を振り払うことなく受け入れた。
ちらりと上げた顔は青ざめていた。顔色までは見えないはずのマベが、何かを察したようにミラを抱き起こす。

「血は出てねえから安心しな。ただお前、今ので疲れたろ。顔色が悪い。」

「一瞬お星様見えたもん…。そういうのいいよ、床に寝転がしといてくれたら自分でどうにかする」

口先ではまだ強がるミラがされるがままに抱き起こされると、その体を支えるマベの腕に、妙な形で硬直した手をそっと添えた。

「送って行ってやるから、宿教えろ」

「えっ。……と、ってない」

ミラが極小さな声でぽつりと答えた。
その様子は何だか叱られている子供のように小さくか弱く、マベは何となく困ったような呆れたような顔をして、低く屈んでその顔を覗き込む。

「………ミラ。俺の目は見えてないが、誰が何やってるかはわかる。今後の付き合いもあるから、覚えとけ。不調は隠すな。」

マベがさり気なく、また会う機会があるかもしれないことを伝えると、ミラは何とも言い難い表情でじっと見つめ返した。
すぐに切り返してくるミラが何も言わないのを見て、マベが続けて提案する。

「近くに知り合いの女がやってる宿屋があるから連れて行ってやる。歩けそうか?」

「やだ。弱みなんて絶対見せたくないの。でも、今日は特別ってことでいいや、面白いもん見たし……」

何となく不貞腐れた顔で、見た目以上に厚みのある胸に、額を寄せて寄りかかる。マベの鼓動の音が聞こえ、全身にまた温かさが戻ってくる感じを覚えたミラは、何となく照れ臭くなって顔を胸に埋めてしまった。

「歩けなーい……って言ったらお姫様抱っこでもしてくれんの?しないでしょ。」

マベが喉奥でク、と可笑しそうに笑った。その顔は今日いちばん自然な笑顔だったが、ミラにはその顔は見えていなかった。
マベが何か聞こえないくらい小さな声で呟いたのも、ミラには聞こえなかった。

「え?今なんて―――」

「繁華街の馴染みに見られちまうぞ?ま、いいけどな!」

すらりと長いミラの足の膝裏に手を回し、軽々と抱き抱えてマベが立ち上がる。
急に抱き上げられた驚きと羞恥心に目を見開きながらも、反射的に首元にぎゅっと掴まってしまったことに気付いたミラが、気まずそうに顔を背けた。

「ちょっ、ちょ、まっ、違うじゃん!冗談通じない人!?」

「頭しこたまぶつけてんだから遠慮すんなって。後で冷やしてバンソーコー張ってやっから。」

「要らないし!部屋にも入ってこないでよ!?」

マベの大きな手が華奢な身らの体を支え、しっかりと抱き上げなおす。

「あ?そーいやこの前も姫抱っこしろみたいなこと言ってたな。お前誰にでも言ってんの?たまに冗談通じねえ奴もいるから気をつけろよ。」

「言わない、こんなこと……真に受けるほうがおかしいんだよ。あーもう、ほんと、バッカみたい……。」

「へーへー。寝てたらドアからベッドに放り投げてやるよ。俺は馬鹿だっつってんだろ。馬鹿じゃなかったらあんなクソみてえな喧嘩してねーよ。)

ミラが不貞腐れた顔をそれ以上見られないように、むぎゅ、と鼻先を押し当てるように首筋に顔を埋めると、マベは少しくすぐったそうに口の端を歪めた。
そのまま、大人の女ひとりを抱き抱えているとは思えないほど軽やかに個室を歩いて出ていく。

「………あんがとな、笑ってくれてよ。」