
ーー今から5年前、長く降り続いた雨がようやく止んだある日の話。
人の気配の全くない町外れのとある建物から、黒いロングコートに黒い手袋をつけた男が出てきた。今にも雨が降り出しそうな空を一瞬見上げたが、そのまま歩き出す。
「後処理は専用の要員に任せればいい。私達の仕事はここまでで終わりだ。」
金髪に透き通るアイスブルーの瞳。美しく整った顔立ちが台無しなほど温度の感じられない表情の男、ゲラルトは、後ろにいるはずの人に向かって振り向きもせずに話しかけた。彼のコートからは血の匂いがするが、それは恐らく自身のものではない。
その後ろからやや遅れて、濃い黒眼鏡をかけた茶髪の男が姿を現した。長身のゲラルトよりさらに背の高いその男は同じような黒いコートに身を包んでいるが、かなり大きく着崩している。
ゲラルトの言葉に頷く代わりに小さく舌打ちした。出てきた建物を振り返ると、その弾みで胸に下げたドッグタグが小さく音を鳴らした。
「………血生臭えな。」
その声が聞こえなかったわけではない。
ゲラルトはほんの僅かに後ろを気にするような素振りを見せただけで、前を向いて歩いていくだけだった。
「どうせ長くは生きられない連中だ。問題無い。」
「あァ?どこが問題無えってんだ。」
背を向けたままのゲラルトを、黒眼鏡の奥からマベの目が鋭く睨みつける。
「組織の連中全員ハデにぶっ殺しやがってよ。何考えてんだお前。」
「……だとしたら何だ?」
ゲラルトがようやく足を止めて振り返った。
建物内にいた人間を一人残さず殺しきったばかりだというのに、後悔も苦しさも見えない全くの無表情でマベを姿を見つめる。
ゲラルトのアイスブルーの瞳が曇天の下で、より一層冷たく見えた。
「人の命を何とも思わず売り飛ばすような人間を生かしておく必要があるか?」
「ああ、それには俺も同感だ。だが、あの中の誰かが別の組織とつながってた可能性だってあった。何人か生かして取り調べりゃ、次の標的に近づけたかもしれねえ。それをお前は台無しにした。」
見えているかのように、マベの色の悪い茶の瞳がじっとゲラルトの青い目を捉える。その先にさらに何か言いかけたが、マベはその言葉を呑み込んだ。
「自分のやり方が全て正しいとでも言いたそうだな。4年間、お前がこういった前線に立つ機会が与えられなかったことにも納得がいく。」
ゲラルトは、マベが何か言いかけたのも気にせずに、また振り返って歩きはじめた。
20で入隊してから4年間、怠けていたつもりはない。見えない目を補うための途方もない調整を重ね、ようやく見えている人間と遜色ない、もしくはそれ以上の戦闘員になったと自負していた。それを見下された気分がしたマベは、怒りが込み上げてくるのをぐっと抑え付けて大股で追いつく。
「待てよゲラルト。お前最近やり過ぎなんだよ。」
「お前はそんな甘い考えで役目が務まるとでも思っているのか?常に殺す、殺されるの覚悟でいろと教えられなかったか?」
「覚悟を決めるのと、相手を殺すかどうか決めるのとは別の話だ。俺はあんたの親父さんから、必要な殺し以外はするなって教わったけどな?」
淡々と答えていたゲラルトの言葉が、初めて途切れた。
「私はあの人とは違う。私たちの役割は国王から命じられた任務を滞りなく遂行することだ。誰にどう思われるかなど、気にするだけ無意味だ。」
「そんなんで他の奴らがついて来るとでも思ってんのか?」
「もしついて来ないなら従わせればいい。それまでの話だ。」
マベは尚もゲラルトから視線を外さずにじっとその背を見ていた。
表情は全く見えないが、さっきとほとんど変わらない何の感情もない顔で喋っているのだろうということは、その声色から容易に想像ができた。
従わせればいいという言葉にまた怒りがこみ上げ、マベの語気が強くなる。
「本気で言ってんのか?他の奴らが今、お前をどんな目で見てんのか考えたことあんのか!?」
ゲラルトが再び足を止めた。
振り返らない代わりに少し大袈裟に溜息をついたのが、感覚の鋭いマベの耳に確かにはっきりと聞こえた。
「部下がついてこなきゃ隊の意味がねえだろ!?一刀さんが死んで動揺してる奴等だっているんだぞ。もうちょっと、………、」
そこまで捲し立てたところで何と言えばいいのかわからなくなり、マベが視線を落とす。
違う。”隊長”が死んで一番動揺しているのは、と頭の中で整理しきる前に、またゲラルトの溜息が聞こえた。
「……お前の問題はそこにあるのだろうな。」
「……。………。………は?俺の問題?」
続く思いがけない言葉にマベの思考は途切れた。
「お前の戦い方は感情的で正確性に欠ける。今もそうだ。己の心を抑制することができず、感情だけで物を言おうとする。」
ゆっくりと振り返ったゲラルトはひどく冷たい目でマベを見ていた。
その冷たさにマベの怒りの表情も鎮火するようにすうっと消えていき、そのまま視線を落とし、俯く。
「………そうかい。それがあんたの答えか。」
ゲラルトは全く反応せず、ただマベをじっと見たまま立っていた。
しばらく沈黙が続いたあと、その視線がまた逸れる。
「私は別件で上に報告しなければならないことがある。理解できたなら早く本部へ帰れ。」
その言葉が終わるか終わらないか、マベが左手を後方へ薙ぎ払うように動かした。その動作に合わせ、ドウという大きな音とともに強い風が二人を包み込むように吹き荒れ始める。
マベの固有魔術は風を自在に操ること。周囲に吹き始めた風はマベが臨戦態勢に入ったことを示していた。
「………だったら今ここで、その感情的で正確性に欠けるっつう戦い方をしてやるよ。さっきから人の地雷踏みたいだけ踏みやがって。え?ゲラルト”さん”よォ。」
ぎり、と音がしそうなほど鋭い目つきでマベが睨みつける。
視線の先にいるゲラルトは何かふたつほど言葉をぽつりと零したようだが、それは風の音に掻き消され聞こえなかった。
鋭い視線を受けてもそちらを見ようともしない。
「自覚が無いのは最も愚かだな。どうやらお前と私では見えている世界が全く違うらしい。……私とやり合ってどうするつもりだ。」
「だったらそのテメエが見てる世界ってのを説明しろよ。組織ひとつぶっ潰したからって調子に乗ってんじゃねえぞ。」
風が徐々に強くなる。足元をすくわれそうな暴風のなか平然と立つマべの周囲に、風で吸い上げられた石や木の枝が無数に浮き上がる。
「その綺麗な面に一発ぶちこんでやりてえだけだよ。ムカつくんだよ、テメエのその態度がよ!!
マベの言葉を皮切りに、浮き上がった物体がまるで弾丸のような速さでゲラルト目掛けて放たれる。
視線を逸らしていたゲラルトは一連の動作を全く見ていなかったが、風によって浮きあげられた物体が放たれるかどうかというタイミングで既に刀を抜き、抜きざまに風ごと斬ったその空間を抜け、少し離れたところに着地した。
例え”見えていた”としても捉えることが難しいほど、その動作はあまりにも早く、常軌を逸している。
「お前の方が舐めた態度だろう。…立場を弁えろ。」
ゲラルトが刀を構え直し、ぎゅっと皮の手袋が擦れる音がしたが、そこから動きはしない。
攻撃を全て止められ対象が移動したことを風の流れで感じ取ったマベがゲラルトの位置を捉える前に声がし、そちらへ振り返る。
先手を打ったにも関わらず全くその速度に追いつけなかったことに苛立ちを隠そうともせずに舌打ちをする。
「隊長風吹かすんじゃねえよ!!俺はまだ認めてねえ!!」
また手を薙ぐように動かすと、周囲に激しく渦をまく竜巻が無数に発生する。
それらで動きを封じつつ、マベ自身は自らの起こした風の中に飛び込んだ。ゲラルトへ急接近し大振りのナイフで斬りつけにかかるが、ゲラルトは瞬きひとつせずにその動きを正確に把握し、確実に刀で受け流した。
風に乗ってゲラルトの刀の届く範囲からいったん離れたマベが、再度接近する。
「話を聞いていなかったのか?認めない者と吠える狗は、力で従わせると。」
ナイフの先が何かを掠めた感覚がした。ぱっとその軌道に鮮血が飛び、風に巻き上げられて周囲に四散する。
その先、刀を握る左手の手首の辺りから出血しているゲラルトの姿が見えると同時に、周囲に甘い匂いが広がった。
「うるせえッ!部隊で狂犬扱いされんのは悪くねえが、テメエだけは例外だ!!前から辛気臭え面してたのはまだ許せたけどよォ、中身までお人形みてえになりやがって…!」
刃先が何か捉えたのを感じたマベが、反撃を避けるために後方へ跳んで地面に着地した。
ゲラルトの左手辺りから零れ落ちる血を認識したが、激昂のまま言葉を続ける。
「俺が感情的だァ?てめえがそんなだからこっちゃキレてんだろうが!!一人で何でもできるからって、他の奴を見ようともしねえのが一番気に、………く、わね…、」
呼吸と同時に何かが身体を侵食していく感覚に襲われる。自身に固有魔術があるようにゲラルトも固有魔術を持つということはかろうじて知っていたが、マベは4年もの間同じ隊に所属しながらその詳細を知らなかった。
入隊した時から、”隊長”の身内で特別扱いをされているスカした顔をしたゲラルトがずっといけ好かなかった。すぐに壁を作り、同じ空間にいれば突っかかり、トラブルの元になりかねない2人は同じ現場に出撃することはなくなっていった。
マベは部隊内でもその扱いにくさから浮いていて、他の隊員との交流もまともになかったのだから、人伝てに耳に入ることもなかった。
ゲラルトの血液が溢れるたびに、並大抵の魔術師では正気が保てないほど高濃度の魔力が周囲に広がっていく。それが放つ甘い匂いは、目が見えないかわりに嗅覚が鋭いマベにとっては人一倍以上に強烈に感じられ、本人がそうと自覚する前にマベの身体は地面に崩れ落ちた。
「………え……!!?」
「お前は、少々痛い目に遭わないと理解ができないらしいな。」
ぽた、とまた血が滴り落ちる。切れた隊服の袖と手袋の間に、人工的に刻まれたらしい模様が見えている。血が滴る音に混じって、ぽつりと雨の音がし始めた。
湿った地面を踏みしめる音とともにゆっくりと歩いて近づいて、マベ身体が崩れ膝を着くかつかないかのところで、肩関節のあたりに真っ直ぐ深々と刺すように刀を突き立てる。
「っ、ぐ、ゥ……!!!」
「感情など判断を鈍らせるだけの塵にすぎない。私たちに必要なのは成果のみだ。……間違っているか?」
マベがかろうじて動く見えない目で、ゲラルトを捉えた。
力の入らない身体に痛みが走る。特殊な訓練で視覚を別の感覚で補っているマベが感じる痛みは常人には想像を絶する。それでも歯を食いしばって耐え、不安定な体勢のままゲラルトに向き直った。
「………ッ、クソが……俺の言ってるのは、そういうことじゃねえ……!!」
「何だ?その情けない声は。痛みも出血も少ない場所を選んでやったというのにな……。」
そのまま顔を少し近づけて、歯を食いしばって痛みに耐えるマベの表情を覗き込む。
「私が尋ねたのは、間違っているか、間違っていないかの二択だ。もう一度答えろ。」
「っ、テメェ……ふざけんなよ…!!もっと人間らしいこと言ってみろよ、ゲラルト。」
並の魔術師なら発狂するような、むせ返るような匂いと皮膚を這いずり回るような違和感。それでも周囲の風はまだ止まない。
マベは脂汗を垂らしながらも、見せつけるかのように口の端を歪めて笑った。
「そうか。わかるまで教えてやる必要があるらしい。」
徐々に雨音の間隔が短くなってきた。
ゲラルトがつられるようにして口の端を上げた。急に右手で髪の毛を引っ掴み肩口に刺さっていた刀を一気に引き抜くと、マベが怒りと苦痛の滲んだ顔を晒す。
もうほとんど周囲の様子を知るための感知術式も展開できない。雨粒が顔や身体を濡らしていくが、それを気にしている余裕もない。その鈍った状態でもなお感じないではいられないほど強烈な魔力の匂いが、鼻先に近づいてくる。
ゲラルトが出血した部位を近づけてきたことを察知したマベがはっと見えない目を大きく見開く。
「………ッ!!!……な、っ、待て…!それだけは、や、めろ…!!っ、クソがっ!!」
「……耐えられるか?まだ笑う余裕もあるようだしな。」
力を振り絞り動かした右手で、ホルスターに残ったナイフを握りゲラルトの顔を切りつけようとしたものの、刃先は僅かに首元の皮一枚を掠めただけだった。
ゲラルトの白いシャツの襟元がじわりと赤く染まり、体を蝕むような魔力の臭いがまた濃度を高めていく。
「その「やめろ」と言うのはどういう意味だ?「やれ」ということだな? 何せ私は、他人の感情がわからないらしいからな……」
「……っぐあ!!う、ああああああ!!!!」
しまったと思ったときにはもう遅く、呼吸を止めようが至近距離では無意味に等しい。高濃度のゲラルトの魔力が全感覚を通じてマベの身体に急速に沁み込んでいく。髪を掴まれたまま激しく仰け反り、四肢がガクガクと痙攣する。やがて全身の力が抜けると風が完全に鎮まり、手からナイフが落とされた。
ゲラルトが髪を掴んだ手を乱暴に押すと、力の抜けたマベの体はいとも簡単に後ろに倒されてしまった。黒眼鏡がずれ、異様に血走った目だけが力無くゲラルトを睨みつける。
「………、…っづぅ……て…め…、何なんだよこの力……!こういうときだけ、生き生き…しやがって……」
「何と言われても説明しがたい。身をもって知るのがいちばんだ。」
ゲラルトが刀を鞘に収めて1歩前へ進み、右手で左の手袋を外してコートのベルトに引っ掛けた。
息を吸っても吸っても苦しさが増すだけで、あまりの苦しさに胸を掻き毟ろうと持ち上げた手を、ゲラルトがぐしゃりと踏みつけて、静かにかがみこむ。
濡れた革の手袋が、苦しそうに息をするマベの顎を掴んだ。長く降り続いた雨でぬかるんだ泥と、本降りになってきた雨でドロドロになったマベが苦悶の表情を浮かべる。
「お前はさっき、私が隊長であることを認めないと言ったな? ……私はそれでも一向に構わん。肩書きが欲しくてこの仕事を続けてきたわけではない。」
「……はッ、…ハ、…はァ……!くあっ…!!……ああ……絶対に、認めねえ……、……俺にとってウライオスの隊長は、一刀さんだけだ。てめえなんざ、認めねえからな!!ゲラルト・シェズ、」
言い切る前に、血が滴り落ちるゲラルトの左手の親指がマベの口の中に強引にねじ込まれる。
「む、んう゛ぅぅ……!!??」
何が起こったかわからず目を見開いた。反射的に噛みつこうとしてなんとか踏みとどまり、血管が切れたのか目のあたりから血が混じった雨水が汚れた頬を幾重にも伝っていく。
ゲラルトがまた目を細めた。そこには恐らく蔑みの気持ちが含まれていたようだった。
「まだそれを言うのか…………。あの人は、死んだ。覆りようのない事実だ。 納得がいかないならお前が隊を去れ。」
ゲラルトは手首から流れる血液が親指をつたってマベの口の中に流れ込んでいくのを淡々と見ていたが、急にふっと笑うような、満足気なような、何とも言えない表情をして見せた。
「この醜態を見せたまま隊を去れるほど、お前のプライドは低くは無いと思うが。ほら、どうした?」
マベにはその蔑むような眼差しも、満足気に笑った顔も見えていない。ただだだ焦点の合っていない両目でひたすらゲラルトを見続けている。
口の中にゲラルトの血液の甘さを感じる。マベには吐き出す力も残っておらず飲み下ろすしかなかった。悔しげに、ぎり、とゲラルトの指に弱々しく歯を立てる。
「ああ……、気が狂いそうだ……、テメエにイライラしすぎてよォッ……!!俺が、ッ……絶対にテメエを、ぶっ倒してやるからなっ…、覚悟しとけよ悪趣味野郎……っうあ!!」
再び激しく身体を仰け反らせた。もう気絶しそうな危うい目を覗き込み血液を飲み込んだのを確認すると、ゲラルトは”よくやった”とでも言いたげに頷いてからようやく指を引き抜いた。
「ン、お゛、…ッ!はァ……!!……っの、野郎ォ……!!マジで許さねぇ、ぶちのめしてやるからな……!!」
「…お前のような無神経で浅はかな人間には心底腹が立つ。 俺が、どんな思いであの人を……、」
言いかけたとき、ゲラルトは自身の持っている刀が視界に入り、言葉を飲み込んだ。そして大きく息を吸って、吐いて、黙り込んだ。
「………っ、…………。」
マベがゲラルトの言葉にはっとしたような表情を一瞬だけ見せたが、遠のく意識がそれ以上を許してくれなかった。肢体から完全に力が抜け、マベは気絶した。
汚れた身体に雨が降り注ぎ、血や泥を落としていく。
「お前には一生無理だろうな。」
動かなくなったのを見てようやく少し苦々しい表情をしたゲラルトは、マベの口元に付いた血を手で拭って、また空を見上げた。
「…駄目だな、私は。やはり、あの人のようにはなれそうにない。」
マベの上体を抱き上げて起こしたところで、周囲に一瞬風が吹いて、2人の姿はそこから消えていた。