いつも薄暗い店内が、今夜は一段と暗い。
通りにも人が歩く気配は無く、店の中には薄い布を裁つ歯切れのいい音が規則正しく聞こえるのみだった。
暫くして、ごとんと重たい音がして、裁ち鋏が机の上に置かれた。
薄い布は何かの形に切り抜かれていたが、それが複雑で繊細なパーツで組み立てられる服のどの部分なのかは素人目にはわからない。彼が長年かけて作り上げてきたパターンは美しくもあり、少し狂気じみてもいる。
今切った薄布を何度か指でなぞったあと、ホフマンは視線をそこから動かさないまま、近くで彼の一挙一動をじっと見つめるミラに話しかけた。
「最近、ミラはゲラルト様と仲が良くなりましたね」
ミラはいつものように派手な髪色ではなく珍しく長い黒髪をしていて、時折その印象的な水色と赤のオッドアイに、ゆらゆらと別の色が混じる。
ある人たちは、こういう暗く静かな夜には歌が聞こえるらしい。少なくともこの場にいるふたりにそういった経験はないが、物知りなミラは、それが一定のラインを超えてしまった魔術師特有のことだということを知っていた。それはつまり、細かいことを抜きにして考えれば、人でありながらもはや人ではない領域に足を踏み入れているということだろう。
そのうちの1人であるゲラルトの名を出されたミラは、少し意外そうな表情をして、しばらく何も言わずにホフマンの顔をじっと見ていた。
「何。気にしてんの?」
「いえ。おふたりが仲良くなるのは私にとって好ましいことです。」
ホフマンはどことなく力のない笑顔で答えた。
ホフマンにとっては、ミラとゲラルトもこの世で最も美しく愛すべき人で、その二人が同じ空間にいるだけで、肩を並べて歩くのを見るだけで、この上なく幸せだった。好きなものを自分のものにしたいという願望はなく、好きな人が幸せに生きてくれることのほうが、ホフマンにとってはずっと大事なことだった。
二人の仲が手放しで良いと言えるものではないとも理解していたから、もっと分かりあってくれればよいのにとずっと思っていた。なのに、実際は二人の距離が近づく度に胸の辺りにじわじわと、重たく苦しいものが溜まっていくようななんとも言えない感じがしてくる。ホフマンはそれを何と言い表せば良いのかわからなかった。
「何でしょうね、この胸騒ぎは。」
「簡単なことだよ。よく考えてみて。」
わからないホフマンと対照的に、ミラは彼の胸に溜まる靄の正体がわかりきっているような、真っ直ぐな瞳で彼を見つめていた。
全て見透かしたようなその目に、ホフマンは珍しく息が詰まった。
「……駄目だ、よくわからない。わからない。何だか眠いです。」
ミラが静かに席を立ち、ホフマンの前に立った。
「ホフマン、目を開けて。寝ちゃダメだ。」
「ミラ?」
「よく聞いて。もうすぐ扉が開く。」
ぐらりと意識が途切れそうになるホフマンの両肩をミラが掴み、強引に揺さぶる。それでもなお重たくなる瞼を閉じかかった時、店の奥の方から、がちゃりと古びた扉の取っ手を動かす音が聞こえた。
ミラはその音のした方に目配せをしてから、一度大きく息を吸って、吐いて、喉奥につっかえていた重苦しい言葉を絞り出すように、少し掠れた声で話し始めた。
「君が……、君が見てるのは、私じゃない。最初から気付いてた。」
「ミラ、わからないんです。本当に――」
「”カミラ”を重ねてる。だから、自分じゃない誰かと一緒にいるのを見るのがつらいんだ。」
はっとホフマンが目を見開いた。
「…………カミラ?」
「カミラは私の母親だよ。君の気持ちはカミラに対するもので、私のことが好きなんじゃない。」
ミラが気付いていながら、ずっと言わずにいたこと。
取っておきの切り札と呼んだそれは、お互いの傷を抉る、苦い過去の恋を思い出させるものだった。
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――彼女はとても美しい人でした。
私に彼女が声をかけてくれたのは、ふたりがほんの幼い頃のことでした。お世辞にも友人の類が多いとは言い難い私と、人懐っこく誰からも愛され慕われる彼女はあまりにも対照的でしたが、同じ通りに住む同い年同士だとわかってから、よく話をするようになりました。
少し気の強い彼女と私は不思議と気が合い、お互いの不得意なところを埋め合える存在だったのかもしれません。彼女が客を紹介してくれるおかげで祖父から引き継いだ仕立て屋の仕事は軌道に乗り、彼女もまた、研究が行き詰まった時には私の知恵を借りに来る。私は、そうやってお互いを支え合えることが本当に嬉しかったのです。
私はいつしかそんな彼女に特別な思いを抱くようになり、そして幸運なことに、彼女もまた私と思いを抱いているようでした。周りの人からもそういう風に見られていたし、お互いあえてそうと口に出すことも無く、幸せな日々が過ぎていきました。
ある日、彼女は大事な友人を紹介したいと言いました。
これまでも何度かそういう機会はあったものの、人見知りの私は上手く馴染めず、彼女以外に腹を割って話せる友人ができることはありませんでした。
ただ、この時ばかりは少し話が違いました。
彼女がカナリアと呼ぶその女性は、金色の目に真っ赤に燃えるような長い髪が印象的で、この世のものとは思えないほどに美しい人でした。その美しさを喩える言葉を私が持ち合わせていないことが惜しいとさえ思いました。
私は一目見た瞬間、この人に私が作った服を着てもらえたらどんなに嬉しいことかと思ったのを覚えています。
カナリアが「この人が、あなたの言ってた大事な人なの?」と聞き、彼女は「そうよ」と返事をし、2人が顔を見合わせて笑いあっていました。
それから私達は、よく3人で話をしました。
それは特別な内容ではなく、どこの店の何が美味しいとか、綺麗な景色を見に行きたいとか、他愛の無い話だったと思います。
カナリアが人間とは違う存在だと知った時は驚きましたが、ころころと変わる表情、優しい仕草はそんなことをすぐに忘れさせました。カナリアは人とは違うことでずっと友達が居なかったと話していましたが、私たちと接する様子は普通の人間の少女と何ら変わりませんでした。
強い力を持っているため、誰かを傷つけてしまわないか心配なのだと話していましたが、それを制御できる彼女が居てくれるから大丈夫なのだとも言っていました。
彼女の頼みでカナリアに似合う洋服を作って欲しいと頼まれた時、私は最初抱いた願望が叶ったことに喜びました。これほど心躍る仕事は今までに無かったとさえ思いました。
私が仕立てたレースのワンピースを着て鏡を何度も見返すカナリアの姿は愛らしく、それを見る私と彼女もまた、幸せな気持ちに包まれました。それほど喜んでいただけるなら、またいつでも作ります、と私は笑って答えました。
彼女は仕事が忙しくなり、私の元へ遊びに来る回数がだんだんと減っていきました。私もまた、仕事が増えて忙しくしていたせいで、それほど気に留められていなかったように思います。
なかなか来れなくてごめんねと謝る彼女でしたが、彼女がとても優秀な研究員であり、誰よりも正義感が強いことを知っていた私は、気にしなくていいから、体を壊さないようにだけ気をつけて欲しいと答えました。
私は、私たちの幸せな日々が消えてしまうなど、この時は夢にも思っていなかったのです。
彼女は来る毎に疲れたような顔になっていき、いつしか全く会いに来なくなりました。さすがに心配になった私が彼女の元を訪ねようとしたとき、カナリアが1人で私の元を尋ねてきました。
私は、カナリアと話をするのも久しぶりだったことにふと気づきました。
そのときのカナリアの表情は印象的でした。
「彼女、最近おかしいの。ごめんなさい。私のせいだわ……。」
そう言ったカナリアの姿は酷く疲れ、以前のような愛らしい笑顔はありませんでした。それどころか、俯いたまま私と一瞬たりとも目を合わせようとしないのです。
彼女というのが誰のことを指すのか、私はすぐに察しました。しかし、何がおかしいのか、何が起きたのか、どうしてカナリアのせいなのか、私にはちっともわかりませんでした。言葉の意味が理解できない私が返す言葉に迷っていると、カナリアはもう一度ごめんなさい、と小さく呟き、私は返事をする間を失ってしまいました。
カナリアはふと飛び立ってどこかへ消えてしまいました。その時、カナリアの周りがぐらりと歪んだのを私は確かに見ました。
それからまもなくのことでした。
彼女が私の元を尋ね、別の誰かと結婚すると報告しました。
私は頭の中が真っ白になって、その後に続く言葉が全く耳に入りませんでした。私は怒りでもなく、悲しみでもなく、もちろん嬉しさでもない得体の知れない感情に飲み込まれ、ただただ呆然と彼女の前に立ち尽くす魂のない人形のようでした。
お腹の中には既に命が宿っている、子供が欲しかったからとても嬉しい、そういった彼女の表情は言葉とは裏腹にあまりにも暗く、私の脳内にこびりついて離れませんでした。
彼女は涙を流しながら、祝福のドレスを私に作って欲しいと言いました。彼女がどんな気持ちでそういったのか、それを考えるだけで胸が張り裂けそうでした。私は結局、理由を尋ねる勇気もないまま、その申し出に了承だけして彼女とわかれました。
私は白いドレスを彼女のために仕立てました。
私の世界で一番美しい彼女が着る晴れ着に、一切の妥協はしませんでした。彼女が好きな柄のレース、刺繍を使って、叶うことのなかった私の彼女への気持ちを全部詰め込んで、せめてこれを見た彼女が喜びの気持ちでいっぱいになりますように。
このドレスを縫うこの糸が、彼女と繋がる最後の糸なのだと思いました。縫い終わったら、この糸を切ったら、私たちが繋がりあうことは二度とないのだと思うと、ひと針ひと針が地獄のようでした。
誰が幸せになったというのか。
何があの幸せな日々を壊したのか。
私は毎日そんなことだけを考えて過ごしました。
せめて彼女が幸せに笑っていてくれたなら、私の気持ちも整理がついたことでしょう。
私はふと、カナリアが言った言葉を思い出しました。
こうなったのは、誰のせいなのか?
カナリアのせいではありません。もちろん、彼女のせいでもありません。その時、何かが降りてきて私に耳打ちをしたかのように、急に私は全てを悟りました。
結局は、彼女に思いを伝えず、幸せにしてあげられなかった私が誰より悪いのです。
そう気付いたとき、私は手に裁ち鋏を握っていました。
ああ、愛するカミラ
私を許してください。
貴女を不幸の底へと落としてしまった私を、どうか――
…