美しい照明の下がる天井。視界に入ったその景色にまったく覚えのないミラは、ここが知らない場所であるとすぐに理解した。
なぜ知らない場所にいるのか思い出そうとするが、意識がぼーっとしてはっきりと思い出せない。横たわったまま顔を動かそうとしても、体がだるくて重く、目線以外がうまく動かせない。
どうしたものかとぼんやり考えていると、すぐ傍から男の声がした。
「ああ、大丈夫ですよ。少しの間、動きにくいと思いますが。」
それは、ミラが少し前まで会話をしていた男だった。
この男に渡された飲み物を飲んだあと急に目眩がして、そこから記憶が途切れていることを思い出したミラは、状況を大方把握し、自分の油断を今更悔いていた。
ミラは自分の力を過信しすぎていた。この男が自分に好意を向けていたのは術にかかったからではなくミラを元々知っていたからで、うまく騙せたと思っていた自分が騙されていたという極簡単なことに気付けなかった。
男の要求が何なのかわからない。ただ、これからの展開が良いものでないことだけはっきりとしていた。ここで殺されるか、研究所に連れていかれて酷い仕打ちを受けるか、大体はそんなところだろう。ミラの頭には悪い結末ばかりが過り、指先がじんわりと痺れるような感じを覚えた。
ミラは、何故こんなことをしたのかと問いかける代わりに男を睨みつけた。しかし、男は目を伏せたあと少し笑うだけだった。
「いやいや、そんな酷いことしないから、そんな目で見ないで欲しいね。私はね、優秀な研究員である”彼女”が欲しかった。だから君を個人所有したいと思ったんですよ。」
物分りのよいミラは男の言う”彼女”というのが、自分の母親のことであるとすぐに理解した。その言葉通りであれば、ミラがこの状況に置かれているのは組織の意思ではなく、この男個人の意思だということなのだろう。
それが何を意味するのか、これから何が起きるのか。ミラは悪い予感がして、指先に留まっていた痺れるような感じが背中のあたりまで一気に広がっていく。
男が寝転んだミラを上から覗き込み、髪を一筋すくい上げる。その髪の毛の1本1本まで愛おしむように撫でて微笑むその目は、焦点がまるで合わず、遠い遠い過去を見ているようだった。目の前のミラに、過去の記憶にある別の人を重ねて愛でるその様子は、狂気と表現する他に無い。
ミラが困惑した表情でそれを見上げると、男はごく自然にミラの唇に自分のそれを重ねに。まだ体を満足に動かせないミラは受け入れることしか出来ず、手足の指先だけが僅かに強ばるように動いた。
「馬鹿げてる。顔が似てたって、私はあいつとは違うのに。」
「いいえ。彼女が遺した君という存在が特別なんです。私は、その特別な血が欲しい。」
睨みつけるミラの視線すら愛おしいように見つめ、男はミラの服に手をかける。
全身にぞわりと不快感が押し寄せ、いっそうミラの表情を険しくさせる。ここからどう逃げ切るか、あれこれと思考を巡らすもののまともに動かない体では、解決法はまったく見つからない。
「彼女も同じような目で私を見ていたよ。私達も作品を残そうね。彼女がそうしてキミを産み出したように。」
「断るね。ぜったい嫌。」
思い通りにならない身体で、何もかも受け入れる他ないこの状況に苛立つミラの様子を少しも気にすることなく、男は顕になった白い胸に口付け、つま先へと手をのばす。
足首から太股へとするすると伸びるその手は恐ろしく冷たく、この男もいわゆる普通の人間ではなく、施設内で造られた存在なのだろうということが想像出来た。
冷たい指先が身体を執拗に撫でる身体的な苦痛よりも、自分の大嫌いな母親に重ねられるという精神的な苦痛がつらく、ミラは表情を険しくする。
「気持ち悪い、失せろ!」
段々とエスカレートする男の行動にミラが思わず大きな声をあげた、その時。
がしゃん、と大きな音とともに床に何かが散らばり、二人ははっと息を飲んだ。
それが部屋の窓硝子が割れた音だと理解するのにそれほど時間は掛からなかったが、どうしてそうなったのか考える間もなく、次の瞬間には重く鈍い音が響いた。
男の体は転がるように床にくずれ落ちた。
「ミラ、無事か。」
甘い果実の匂いがする方に、ゲラルトが立っていた。
硝子片で出来たとは思えない出血と、荒い息。彼の荒々しすぎる登場の仕方に、普段のような余裕は無かった。
ミラはほんの少し顔を向けてぼんやりと見つめたまま、大きく息を吸って吐いてを繰り返すだけで、その問いに答えなかった。
乱れた服からのぞく白い胸、すらりと伸びた細い足。答えはなくても、ぐったりと横たわるその姿を見ただけで、どんな卑劣な行為があったか容易く想像できる。床に転がったまま動かない男に、そして来るのが遅すぎた自分に腹が立ち、ゲラルトは眉間に深く皺を寄せ、歯を食いしばって床に落ちた男の姿を睨みつけた。
怒りに任せて握りしめた刀と皮の手袋が擦れ、ぎり、と音を立てた。
「だめ、殺しちゃだめだ!」
上手く動かない体に鞭打ち、ミラが叫んだ。
ゲラルトが、はっと顔を上げる。
「波風立てないって約束だろ、らしくないな」
「だが、」
「らしくない」という言葉に一番納得しているのはゲラルト自身だった。咄嗟に出た逆接の先に続く言葉も上手くまとまらず、そこで口を閉ざす。
任務は淡々とただひとつの無駄もなく終わらせる。ゲラルトにとって重要なのは目的を完遂させることだけで、そこに感情は不要で、無意味だ。ゲラルトにとって仕事とは、あるいは自分の存在する理由とは、そういうものだった。
なのに今はどうだろうか。もう気を失って動かない、殺す必要もない相手に怒りに任せて刃を向けている。その状況にゲラルトは驚いていた。
何がそうさせたのか――、無意識の間に自分で切ったであろう腕の傷がじくじくと痛み、徐々に冷静さを取り戻していく。ゲラルトはミラの方をじっと見つめ、その理由を少しずつ理解していく。
「何。私を憐れんでるの?そういうのいちばん腹たつ」
「ミラ」
「別にこんなの、慣れてるし」
「わかった、もうやめろ」
弱々しく消えそうなミラの言葉。
ミラは俯いたまま、小さく震えていた。
これまでもずっとこんな風に、誰に頼ろうともしないで強がって一人で生きてきた。復讐を遂げることだけが唯一の生きる理由だと自分に言い聞かせ、感情を殺し、誰も信用しない自分の姿と重なるようで、ゲラルトは不思議な感覚を覚えた。
別行動をしてから暫くしたあと、良くも悪くも目立つミラの振る舞いを遠目で見ていた時、小声で話し合う人たちがいるのに気付いた。それとなく近付いてみると、そこにはゲラルトが知った顔だと言った人物たちが含まれていて、その人たちもまた、ミラのことを知っているようだった。隊服を着ていないゲラルトには気付かなかったのか、話は続けられた。
「彼、あの女を捕まえるんだって」「自分の女にしたいだけ」「そのうちに殺してしまうでしょうね」
そんな会話が聞こえて来たとき、ゲラルトは驚くほど心が狼狽えていることに自分でも気づいていた。そしてその衝動に突き動かされ、波風を立てないようにと言ったミラの忠告を無視してしまった。
ゲラルトは刀を鞘に収め、ミラの方へ一歩一歩近づいた。
その肩に遠慮がちに触れると、ミラはゆっくりと視線をあげた。
今にも泣きだしそうなその顔は、不思議な感覚をまた呼び起こした。それがとうに無くしたと思っていた”感情”を揺さぶられているのだと気付いていながら、それを認める気にはなれなかった。ゲラルトは誤魔化すように、震えるミラの体をぎゅうと強く抱きしめた。
「つらい時に平気なふりをするな。」
「……つらい時に優しくすんな、馬鹿。」
ミラは気まずそうな表情を浮かべて、もぞりと一度だけ体を動かした。
「私に触れたら色々見られるよ」
「見たければ見ろ、困るような過去はない」
「他人に見られるのって嫌でしょ?」
「そういうものか?」
いつもより幾分高い体温と、独特な甘い血の匂い。多くを語らなくとも、ゲラルトが危険を冒してまで急いでここに駆けつけたことは明らかだった。
こんな風に誰かに優しく抱きしめられたのはいつぶりだろうかと考えながら、ミラはふと顔をあたたかい胸に押し付け、何度か何か言いかけてはやめてを繰り返した後、やっと口を開いた。
「ありがと……、その……、来てくれて。」
「お前は危なっかしくて見ていられない」
「なんか前にも似たようなこと言われたような…」
いつもの調子で話し始めたのを見て、ゲラルトはミラを離して、少し気まずそうに視線を逸らした。ミラは自分が無防備な姿だったことを思い出し、慌てた様子で服を抑える。
「どうしてここがわかったの?」
「ミラの話をしている奴らがいて、そこから話を聞いた。」
「聞いた?脅した、じゃなくて?」
「想像の通りだ。」
「こんなに怪我して、無茶するんだから」
「お前にだけは言われたくない…」
傷をひとつひとつ確かめるように見ていたミラの視線が、ある一点で止まり、急に何かを思い出したように顔を上げた。
ミラは過去のある日のことを思い出していた。朧気な記憶はひとつひとつ繋がっていき、やがてはっきりとした画となって頭の中に蘇る。
「危なっかしいって言われたんだ。何年も前に、研究所の内部で。それと同じ刀を持ってた」
ゲラルトとミラの視線がぴたと合った。
「この刀はこの世にひとつしかない」
「私たちが鉢合わせてたってこと?」
「いや。それはない。私は記憶を消されたことは無いからだ。」
「あー……全員殺すから……」
ゲラルトはぴたりと動きを止めた。
恐らくミラの記憶は研究所を出る時に操作されて曖昧になっているらしいが、それが正しいとすれば、この刀の前の持ち主とミラがどこかで会っていたということだ。呼吸すらはたと止まった彼の様子を見て、ミラが不思議そうにその顔を覗き込む。
「あんたじゃないなら、誰だったんだろう?」
ゲラルトは黙ったまま、何も言わなかった。
その重苦しい空気に気付き、ミラもまた口を閉ざした。
しばらく静寂が続いたあと、ゲラルトは鉛のように重くつっかえたその言葉を、苦しそうに吐き出した。
「それは……、私の父親だ。」