08.小さな箱の中の秘密

ミラは椅子に浅く腰掛けてカウンターに肘をつき、まるでここに居ない全く無関係の傍観者のように“二人”のやりとりを、ただぼんやりと眺めていた。
二人とは言うまでも無く、ホフマンとゲラルトのことだ。
目の前で、ホフマンが嫌がるゲラルトに執拗ににじり寄るいつもの光景が繰り広げられている。そこに付随する会話は少しも頭に入ってこなかったが、これまで幾度となく見てきたのと同じ内容が繰り返されていることは二人の様子からすぐに窺い知れた。
ミラはその騒動から目を反らしてから深く息を吐き、視線を落とした。

他人が腹の底で何を思っているかなど、どれほど探ったところでわかりはしない。だから、自分だけを信じて生きていくのが正しいと、ずっとそう思って生きてきた。
自分だけの力でどうにもならないことがあるなら、適当な相手を利用して、用が済めばさっさと消え失せれば良い。世の中はそういう脆い縁が繋がってできているものなのだから、それで恨んだり恨まれたりするのは馬鹿のすることだ。

ミラは今、その自分の信念を曲げるか否かで悩んでいた。
ミラを悩ませているのは、不意にゲラルトから投げかけられた「手を組むか否か」という問いだった。

いつもなら有用な情報はどんな汚い手を使ってでも奪い取るのがミラのやり方だが、今回ばかりは相手が相手だけにそう簡単にはいかないことがわかっていた。人間が本来持ち合わせているはずの感情というものが全くといっていいほど欠けていて、人を簡単に切って捨ててしまえるような相手だ。ミラが普段使うような手を使って仕掛けたところで思った通りにならないことは、目に見えていた。
なら彼の言うように手を組めばいい。持ち駒としてはこれ以上ないほどの逸材で、敵に回すより味方につけた方がいいのは明らかなのだから。

しかし、ミラにはどうしてもつっかえになっていることがあって、答えを返せないでいた。
ミラは生まれつき、物から過去の記憶を辿れる能力を持っていた。その過去視の能力を知りながらも、ゲラルトが気にする様子を見せずにミラを”普通の人と同じように扱い続けること”に、わけもない苛立ちを感じていた。
今まで散々、周りから疎まれた力。いつ頃かまでは誰かに理解してほしいとも思ったが、そんな願望を抱くこと自体が無駄だと悟ったのは、もう随分と前のことだ。だから、いっそ気味が悪いと言って避けてくれるほうが気持ちが楽だった。

ゲラルトもホフマンも近くにいるのに、心はどこか遠く離れたところにある。そもそも、この人たちに心なんてものがあるのだろうか。一緒に居てわかったのは、底抜けにイカれた奴らだということくらいだった。
これまでの経験から測ることのできないこの二人の存在を、ミラはどうにも処理しきれずにいる。わけのわからない心の靄が消えないせいで二の足を踏んでいる自分自身にも嫌気が指しているのだから、愚かとしか言いようがない。
ミラの思考はふと、遠い過去を巡った。

――私は生まれたときから人とは違っていた。
私がそれに気付いたのは随分経ってからのことだった。
自分の目が見えること、周りの音が聞こえること、指先で触れた感覚がわかること、それらに何の疑問をもたないのと同じで、私にとってはそれが当たり前だったから。

最初のうちは不思議に思うこともなかった。触れたものから入ってくる情報はごく僅かで、ほんの少し前のことが分かる程度だったから、そのことを口に出したとしても、周りの人は「面白いことを言う子だね」と言うだけで、子供の戯言だと思って聞き流してくれた。
日が経つごとにその頻度と精度が上がっていって、私が「不思議な子」だと言われることがあっても、父も母もいつも私の味方で居てくれた。何も気にすることはないんだよ、と言ってくれた。

父も母も病院のような大きな施設に勤めていて、そこで出会ったのだという。
周りは不思議な子だと言うかもしれないけれど、本当は人間は色んな可能性を持っていて、普段使えている力はほんの僅かにしかすぎないんだよ、と教えてくれた。私はほんの少し他の人よりもその可能性が開けているのかもしれないね、と。

「それは、幸せを運ぶ小鳥があなたに授けてくれたものなのよ。」
そういった母の言葉は幼かった私にとって、とても印象的だった。

――虚構とはなんと脆いことか。
嘘で積み上げた幸せは、一瞬にして崩れ落ちる。

きっかけは、ほんの小さな好奇心だった。

ある日、両親が仕事で居ない間に暇を持て余した私は、用事があったわけでもないのに母の部屋にするりと入り込んだ。すると、いつも鍵がかかっているはずの母の宝石箱が空いているのだった。
私の目はすぐにそれに釘付けになった。

母はいつも色んな装飾品を付けていて、それが幼い頃からずっと羨ましかった。鈍く光る金の錠に阻まれ決して覗き込むことのできない、ただ静かに佇む小さな箱の中の世界。その未知の世界への憧れは、いつしかどんどんと膨れ上がっていった。
その時はもうそれなりの分別はつく年齢だったけれど、その箱の中の世界が不思議と私を手招いているように思えた。そして私は、幼い日の無邪気な心に戻ったかのように夢中になって、その中を覗き込んでいた。

私が手に取ったのは、小さな鍵のチャームのついたネックレスだった。
他と違ってすこし古びて輝きの鈍ったそれは、宝石箱の中のさらに小さな箱に丁寧にしまいこまれていて、きっと母が大事にしている特別なものなのだと子供の私にもすぐにわかった。
その“鍵”を持ち上げた私は、不思議な感覚に包まれた。

見える。
そう思った。

読み取れるものが、今まで経験したことがないくらいに長く過去に遡っていくのがなんだか不思議だった。小さな箱の中にぎゅうぎゅうにしまいこまれて縺れていた記憶たちが、ひとつひとつ解き放たれるように、私の頭のなかで鮮明に映像化されていく。

——

その女性は、ひどく冷たい表情をしていた。
首元にはきらりとひかる鍵のネックレスが下がっていて、それが私の母らしいということはすぐにわかったが、その姿は私の知る優しい母とはまるで違っていた。

母の視線の先には、赤い髪の女性が座っている。
その容姿を言い表すのに、ただ一言、ありきたりな“美しい”という言葉しか見つからないほどに、彼女は美しい。

ゆるりと視線を動かした彼女が、言葉を紡ぐ。

「思い通りには、いかなかったんでしょ?」
「そうね。力の制御が効かないし、実用的ではなかった。みんなの興味もそれほど集められなかったし。」
「それで?何もかも失って何を得たの?」

緊張感のある声色で話す母とは対照的に、彼女は揺れる花へ、飛び交う蝶へと視線をうつしながら無邪気に笑う。

「ねえ、知ってる? 私、見たの。」

ガラス越しに見える太陽に手を透かして、何か短く呟いたようだが、その言葉は聞き取ることができない。それが母の耳に届かなかったからなのか、記憶から消してしまったからなのかはわからなかったが、確かに母は一度大きく表情を歪めた。

「この庭園は美しいわね。もう少しなら我慢できそうだわ。」
「改良を加えて再実験すれば、もっと違う結果になるから。あと少し待っていて、カナリア……」

カナリアと呼びかけられた彼女の金色の目の奥が、ぎらりと光った。
その光に射抜かれた母は言葉をぴたと止め、そして俯いた。

その表情には、嫌悪、怨み、あるいは侮蔑といったあらゆる負の感情が凝縮しているように見えた。その激しい感情は、ひとりの女性が受け止めるにはあまりにも重すぎる。
彼女の金色の目がまた不安定にゆらゆらと動きはじめた。

「仕方ないわ。理想が完璧すぎるんだもの、届くはずがないわ。太陽に手が届かないのと一緒よ。」

ふと立ち上がった彼女は、鳥たちが囀りあうような美しい笑い声を上げながら、白い扉を開け放って、その先へ姿を消した。

—–

母が、視線を落したままぽつりと呟いた。

「私もカナリアと似た能力を持ってる。」

頬杖をつき、手に持った細いペンで机の天板をコンコンと叩きながら話す様子は、落ち着きがなく、そこには僅かに苛立ちが感じられた。

「例えば人に触れるとか、そういうことで発動できれば少しは面白みのあるものにならない?」

先程机を叩いていたペンを持ち直し、そこに広げられた白い紙に何かを書き綴っていく。
思いついたことを思いついたままに書いているのだろうが、その字は歪み、彼女の心の中を映し出すかのようにあちこちへと散らかっている。

「君は成果をあげるためなら何でもするのか?」
「ええ。どうだっていいわね、他のことは。」
「随分と小鳥に夢中なんだな」

母の手はそこでぴたと止まった。

「いいえ?私の望みは、前みたいに皆の関心が私に向けられること。」

定まらない視線で虚空を見上げ、過去のことへ思いを馳せるその様子は、どう見てもおかしかった。
ただ“成果”を出したいというだけではなくて、“求められる”ということに酷く執着しているように見えた。

狂気に満ち溢れていた。

「だから貴方を呼んだの。二人の遺伝子を元に、他の能力も加えて新たな個体を作り出すのよ。面白そうでしょう?」

やっと顔を上げた母のその視線の先には、金色の髪に赤い目をした、見知らぬ男性が座っていた。

—–

その日の晩、私は自分の抱いた疑問を口にした。そうしようと思って言ったというよりは、混乱状態が覚めないまま、気付いたらその疑問がふと零れ落ちるようにして言葉になったのだと思う。

「お父さんは、私のお父さんじゃないの?」

その時、両親がどれほどの驚きをもって私の顔を見たことか。その両親の表情と長い沈黙は、自分が余計なことを口走ったのだと理解させるには十分すぎるものだった。
沈黙のあと父が絞り出すように掠れた声で言った言葉は、今でも鮮明に脳裏に焼きついている。

「気味の悪いことを言うな、お前は、普通じゃない」。

そんなこと、とっくにわかっていた。
始めのうちは「不思議な子」ですんでいたことも、歳を重ねるにつれて、だんだんと許されなくなっていた。周りが私に対して怪訝な目をむけるようになっていたのに気がつかないほど、私は愚かではない。
その頃の私には他の人の感覚がどうとか、普通の人はどうとか、そういうことはよくわからなかった。それでもやはり、自分のこの感覚があるべきものではないことくらいは理解していた。

そこから始まったのはひどく息苦しい毎日だった。
私という人間は誰に望まれたわけでもない、ただ母の承認欲求を満たすために生み出された個体でしかなかった。特殊な遺伝子を掛け合わせ、改良し、意図的に普通の人間と異なったモノを生み出すための実験。母がどんな期待をしていたのかは知るところではないが、生まれてきた私が母親の力を色濃く受け継いだ”モノ”だとわかって、その興味は一瞬にして失われた。
それらが全て知れた後、これまでと同じ生活がおくれるわけがない。

平穏さを失った生活で、重たい空気を吸って吐き出すたびに心が磨り減っていくように感じられた。
私はこのまま疲弊していくだけなのだろうか。
生まれ方を選ぶことはできないが、これからの生き方は自分で決められる。

まだ幼さも残す頃、私は身一つで家を飛び出した。
そこから始まるのも決して楽な生活ではなかったが、呼吸をするたびに胸が焼かれていくようなあの痛みはそこにはなかった。

「ミラ、大丈夫ですか?」

ミラの意識は、優しい問いかけによって、この場に戻った。

夢を見ていたようだった。
こういうことが今までにも度々あったのか、ミラは大して驚きもせずそれを受け入れていた。またか、といったような反応を僅かにしたあと、問いかけてきたその人の紫の瞳を見つめて笑ってみせた。

「ん、ちょっと考え事。」
「ホフマン、気にするな。どうせまた悪い事しか考えていない。」
「ゲラルト様は厳しいですね。そんなに頑なにならず、もっと、身も心も許してくださって構いませんのに…」
「気色の悪い言い方をするな。」

そこからまた、さっき見たのと同じような会話が再度繰り返されるのは言うまでもない。ミラはまた傍観者になって、二人のやりとりをただじっと眺めていた。

失われたものが戻らないことくらいは解っているし、取り戻そうと望んでもいない。ただ、地獄のようなこの世界に自分を産み落とした母親と、母を狂わせたあの女に一矢報いてやらなければ。
誰をどう利用してやったって構わない。ミラは、目的のためなら最後の最後に裏切ることだって、今までに数え切れないほどやってきた。悪に染められたミラの感覚は麻痺しきっている。たとえ嫌悪の目を向けられても、罪悪感を感じるほどの良心はミラには残っていない。

やらなくてはいけないことは明白だ。
とっくの昔に覚悟を決めたのだから。

決断は一刻でも早い方が良い。
それでも首を縦に振ることができないミラは、また深い深い溜息をつくのだった。