07.理想のふたり

古びた扉が開く音がして振り返る彼は、今日もまたその視線の先に立っているであろう女性の姿を思い浮かべ、穏やかに笑った。

「こんばんは。遅いので今日は来られないかと、」

カウンターの奥にいたホフマンは言葉をそこでぴたと止め、呼吸することすら忘れたまま何度か瞬きをした。
彼の視線の先には確かにいつもの”彼女”が立っていたのだが、その隣には黒いコートの男が立っていた。金色の髪にアイスブルーの瞳、引き締まった体に黒いロングコート、上から下へ撫でるように視線を動かし、その姿をしっかりと確認したホフマンは、それがいつか見たあの人物だということを認識していく。

「ミラ、その方とお知り合いだったんですか?」

ミラは素っ気なく一言だけ、会いたかったんだろ?と吐き捨てるように言った。ホフマンはどちらでもないその曖昧な答えにも大した相槌を打たなかった。元々その問いかけに大した意味はなく、どのような答えが返ってきたとしてもホフマンにとってはあまり重要なことではなかった。
重要なのはただ、「彼」が確かにそこに存在しているということ。
夢の中を漂っているのではないか、そう思ったホフマンは一度視線を手元にやって、そしてまた目の前に広がる光景をぼんやりと見つめた。

その視線の先に立つゲラルトの表情は、ホフマンとは対照的に険しい。
次会った時にはどんな顔をして迎えられるだろう――そんなことを考えていたゲラルトだったが、ホフマンの浮かべる表情は想像していたどれでもなかった。虚空を見ているような、何とも判断のつかないその表情にどんな感情が隠れているのか、ゲラルトにはまったく理解が出来なかった。
わけの分からぬ感情は、明確に向けられる悪意や敵意より余程恐ろしく、背中のあたりがぞわぞわした。

「美しいものが並んで腕を組んで、わたくし、気持ちが昂りすぎてどうにかなってしまいそうなのですが……」

ゲラルトとミラは思わず互いに顔を見合せ、そしてミラがここに入ってくる時に成り行きで引っ掴んだ腕へと視線を下ろした。
確かに腕を組んでいると見えなくもなかった。ふたりはまたホフマンの方へ視線を戻し、あきれたような顔をしてその腕をはなした。

「これ、腕組んでるうちに入る? さっきこの店の前で初めて会って、ちょっと話しただけ。」
「そうでしたか。でも、お二人はお似合いで、まるで――」
「世間話をしに来たわけでは無い」

ピシャリと言い放つゲラルトの言葉に、店の中がしんと静まり返った。
ホフマンは少し残念そうな顔をして、それから納得したようにゆっくりと頷いた。

「そうですね。新しいご注文でしょうか。」
「違う。」
「おや。それではこのような仕立て屋の元へ、一体何のためにお越しくださったのでしょう?」

不思議そうに顔を上げたホフマンの視線とゲラルトの視線がかち合い、二、三度瞬きをしてから、ゲラルトが視線を逸らした。
何と言われても、今の段階では何とも言いようがない。目的のものをここで見失ったから、この店に不審なところがあるから、というだけで何の確証もないのに無理矢理押しかけた。ただそれだけだった。
怪しいのは間違いない。しかし、小鳥がここに入ったらしいのは単なる偶然で、全くそのことを知らないかもしれないホフマンに、それとわかるような質問をしてよいものかと悩んだゲラルトは、暫く口を閉ざした。

「お前に用があるからだ」
「私に会いに来てくださったんですか? それはそれは光栄でございます。」

なぜそういう解釈になる?とでも言いたそうなゲラルトの不満げな様子に、ミラがわざとらしくふふ、と声を出して笑った。
確かにホフマンに会うために時間を費やし、念願叶ってここに踏み込んだのは事実だ。かと言って、ホフマンに会いたかったわけでは無い。適当な言葉で切り返せばいい。しかし、あまりにも常識の枠にはまらないホフマンに不用意な返事をして、また妙な気を起こさせたくはなかった。
一言ごとに長考するゲラルトを他所に、ホフマンはいつも通り、あまり気にする様子もなく続けた。

「ああ、やはり何度見ても美しい。黒い長い上着が本当によく似合っていらっしゃる。」

ホフマンの指が、触れるか触れないかの絶妙な距離を保ったまま、ゲラルトの腰から上へすーっとなぞるように動く。
そのいやに繊細な動きは、初めて会った時のおぞましい記憶を呼び起こさせ、ゲラルトの表情がまた険しさを増した。それもまた気にする様子のないホフマンは、その手をある一点でぴたと止めた。

「またこれですか!?不愉快極まりないと前にも申し上げました!」
「制服だ。私の意思ではないのだから仕方ない」

ホフマンが指さしているのは、以前会った時、鋭い裁ち鋏で切り落とされたのと同じ黒いネクタイだった。
また切り落とされる訳にもいかないゲラルトは首元に留まるホフマンの手を片手で振り払い、彼をじろりと睨みつけたが、内心では今ホフマンがまた裁ち鋏を手に持っていなくて良かったとほっとしていた。もしそうだったなら、またいとも簡単に切り落とされていたことだろう。

「警戒しなくていい。ホフマンは本当にただの仕立て屋だよ。」

ふたりのやり取りを見ていたミラが、見かねて声をかけた。
ゲラルトのすぐそばにいたはずのミラは、いつの間にか少し距離を取り、壁に寄りかかって腕を組んで立っていた。早く用事を終わらせて帰れと、その目が語っている。
ゲラルトは極短くため息をつき、改めてホフマンとの会話を試みる。

「お前に聞きたいことがある」

ホフマンはぱっと視線を上げた。

「私にですか?何でしょう?」
「私は、逃げた小鳥を探している。」

ゲラルトは、わけを知らない人にはわかるようでわからない、曖昧な言葉で切り返した。予想していなかった言葉にきょとんとした表情をするホフマンの奥で、ミラが確かに鋭い目線でゲラルトの方をちらりと見ている。
それに気付かないほどゲラルトは鈍くはなかったが、何も見ていないような素振りでホフマンの答えをじっと待った。

「小鳥、ですか?私は見ておりません。」

見た目の割に落ち着いた声色で喋るその男の一挙一動、その全てを逃すまいと、ゲラルトは瞬きひとつせずじっとホフマンを見た。
まともであることが不審というのはおかしな話だが、以前会ったときの異常者ぶりとはあまりにも違っていて、それがかえって不気味だった。

「探し人がそう呼ばれている。この間、ちょうどここで見失った。」
「そうでしたか。しかし私には心当たりがございません。お力になれなくて申し訳ありません。」

ホフマンは申し訳なさそうにそう言って、そのあと何も言わなくなった。
やはりここで見失ったのは単なる偶然で、ホフマンとは関係がなかったのだろうか。そんな考えがゲラルトの頭をよぎった。しかし、それではこの店が異常なまでに人目につかないことも、ミラのような胡散臭い人間が入り浸っていることも、説明がつかない。
ゲラルトがどう答えるか悩んでいると、今度はミラがわざとらしく溜息をついた。

「ホフマン。私が頼んだ服ってどれくらい出来てたんだっけ?」
「その件でしたら、レースの種類を選んでいる最中で……少々お待ちいただけますか。持って参ります。」

ホフマンがカウンターの奥にある作業場のほうへ入っていくのを確認したミラは、ぱっとゲラルトのほうへと向き直り、呆れたような顔で言った。

「ホフマンに何を聞いたって無駄だからね。彼には記憶が無いんだ。」
「記憶がない?」
「ホフマンは他人や自分の記憶を消す力を持ってる。本人はそれすら忘れているけど。あれは魔術じゃないから誰も気づかないんだ。」

ゲラルトはじっとミラの表情を見つめた。ミラもまた同じように見つめ返し、ふたりは少しの間、黙ったままその状態を続けた。

「……”見た”のか?」

ミラはその問いにこたえる代わりに、静かに一度だけ頷いた。

「なるほど。過去が見えるという噂は本当なんだな。」
「まあね」
「お前も小鳥を探しているのか」

ミラは壁にもたれ掛かり、じっと一点を見つめたまま、小さく舌打ちだけで答えた。それはおそらく肯定なのだとゲラルトは思った。

「この前、あれを追っているうちにここに辿り着いた。ここに入って行ったと私は記憶している。」
「見たんだ?」
「ああ。前の新月の夜だった。」
「それでここにいるんじゃないかって思ったわけね。」
「お前もそう思うからここに出入りしているんだろう?」
「いや?私はもう確信してる。」

そのまま口を閉ざし何も言おうとしないミラの様子を見て、ゲラルトは何かを察したように黙って何度か頷いたあと、ゆっくりとミラへと近づいた。

「なるほど。」

ゲラルトはミラの目の前でその歩みを止めた。

「つまり、目的は同じ者同士だ。手を組まないか?」

ミラはそれでもゲラルトと目を合わせようとはしない。ただ一点を見つめ、じっと動かずにいるのは、どう立ち回るのが最も自分にとって利益となるか考えているのだろう。
ふと目を閉じたミラは、ゲラルトの提案を小馬鹿にするように鼻で笑った。

「今はどっちでもないね。」
「何が必要だ?金か?」
「あんたのこと信用してないんだ。」
「そうか。なら、その信用とやらを得るか……」

ゲラルトは片手を壁について、上半身を屈めてミラと目線を合わせた。
ミラは思わず一度だけ視線を上げた。すぐに顔を背けようとしたが、ゲラルトの手にあごをぐいと乱暴に掴まれ、いとも簡単に阻まれる。
無理矢理合わせた二人の鋭い視線がぶつかりあう。

「協力せざるを得ないようにするか。悩むところだ。」
「普通に考えて前者だね。そっちが先に誠意を見せてみろよ。ほら、女性にお願いごとをする時はさぁ、跪いて足先にキスするのが普通じゃないのかなあ?やってみろよ、今ここで。」
「二度とその舐めた態度を取れないようにしてやろうか?」
「……あんたもイカれてる。」

イカれている、という言葉にゲラルトは納得がいかないような様子で少し首をかしげた。
威圧しても少しも動揺せず睨みつけるミラを見て、ゲラルトは少し目を細め、その直後、口の端を少しあげてみせた。

「なるほど。死なない程度を見極めて痛めつけるのは得意だ。安心しろ。」
「おー、ありえない方の選択肢を軽やかに選ぶんだ……」

ゲラルトが顎を掴んでいた手を放し、そのまま流れるようにするりとミラの手首を掴んだ。ひやりとしたものが指先に触れた感覚に、ミラの身体がぴくりと跳ねる。ミラが恐る恐る視線を落とすと、ゲラルトの片手が刀の柄を握り、鞘からぎらりと光る刃が覗いていた。

「ちょ、ちょっと待て、まじでやる気?冗談通じない人?」

引き攣るミラの顔とは対照的に、ゲラルトの表情はあまりにも希薄だ。もう慣れきってしまって、そのあとに続く残虐な行為に何の感情も抱いていないのだろう。
本当にイカれてる――、ミラがそう思った瞬間、ドアが開く音がした。

「レースを生成にするかオフホワイトにするかで悩……あっ」
「あ?」
「……」

壁に押し付けられるミラ、ミラの片手を握るゲラルト、そして割って入ってしまったホフマン。三者全員が一斉にその口を閉ざしたことで、部屋にはしばらく全く無音の時が流れた。
ホフマンは目を見開いた後、わかりやすくわたわたと慌てたようにその両者を交互に見、そして目を背けた。

「申し訳ございません、お取り込み中に割り込んでしまったようで……!ああ、私のことは空気だと思って!どうぞ、続きを!」
「お前、何か誤解してないか?」
「しかも謝りつつ、誤解してる次の展開を見ようとしてるし」
「そ、そうですね……見てはいけない……いや、でも見たいっ……、私はどうすれば……!」
「一番イカれてるのはホフマンかな…」

ゲラルトはぱっとミラから離れ、背を向けて外へと繋がる扉の方へと歩いていく。

「今日のところは、返事はどちらでもないということにしておく。お前も、考える頭があるなら、どちらが賢い選択か考えておけ。」

その背にミラはありったけの嫌悪の眼差しをぶつけるが、それが意味を成さないことはわかっている。結局一度も振り返ることなくゲラルトは店を出ていった。