あれから、何度この道を行き来したことだろう。
ゲラルトは人通りのない暗い夜道を歩いていた。
今日は少し風が強く、足首まである真っ黒のコートが一歩踏み出すごとに大袈裟になびく。それに煩わしさを感じなくなったのは、この隊服にはじめて袖を通してから随分長い時間が経ったからかもしれない。
ゲラルトはある建物が見えたところで歩みを止めた。じっとその建物を見つめたまま、一体どれほどの間立ち尽くしていたかわからない。それが一瞬だったのか数分間だったのか、それすら感じ取れないほど、ただただ気が重い。ゲラルトは短くため息をついて視線を落とした。
「TAILOR HOFFMAN」と書かれた建物。
そう、ここは忘れることも出来ない、あの店だった。あの時はもう二度と来るかと思ったが、結局見失った手がかりを再び探しにあれから何度も何度もここへ足を運び、異常性癖者とまで思った店主に接触できる機会をずっと待ち続けている。
こうして「待ち」を続けることになったのには理由があった。
たまに客が来て出入りしている様子はあるのに、ゲラルトが店の扉を開けようとするといつも必ず鍵が掛かっていて、まるで見えない力によって固く閉ざされているかのようにぴくりとも動かないからだ。
人通りが無いことを良いことに、力づくで開けようとしたこともあったが、不思議なことにそれも叶わなかった。
違和感は増すばかりだった。あれから何度もここで待ち伏せをしているのに、一度もあの店主と遭遇したことがない。材料の調達、生活のための買出し、そういった本来当然あるべき外出に鉢合わせたことがなかった。ただの一度もだ。
ただし、その違和感に対する答えには既にたどり着いている。それは何度もここに来る間に気付いたことだった。徒労のように感じていた待ちも少しは実のあるものだったらしいと思えば、ここに来るたびに感じる気の重さも少しは紛れるような気がした。
ゲラルトが今待っているのは、あの店の店主ではない。あの男への接触を可能にする、別の可能性だ。
コツ、コツ、と細いヒールで地面を打つ僅かな音が聞こえてくる。
その歩調は、この暗い夜道をたったひとりで過ぎ行く女性にしては、やけにゆったりしている。心細い闇の中を早く抜け出そうと急ぐわけでもなく、むしろその闇の中に存在をそっと隠しているかのようだ。
ゲラルトはほとんど動くことなく、視線だけを音の方へと向ける。街灯の少ないこの道では姿をはっきりと確認することはできないが、ゲラルトはその出現のパターンや足音、更に言えば空気から、それが自分の待っていた別の可能性であることを確信した。
ゲラルトはこの神経質な足音に、他とは違うもの、言い表せない異質さを感じていた。この人物の行き来を何度も見ている間に、それが人が人である以上隠し切れない根底に潜む癖だと気付いてからは、近づいてくる人影がその人物か否か、大体の判別がつくようになった。
街頭に照らされて姿を現したのは、金色の髪に暗い赤の服を纏った女性だった。胸の辺りに両手で大きな袋を抱え、暗闇に包まれた夜道とは対照的に、その表情は明るい。
そっとその背後に近づくと、女性は一瞬後ろを気にするような僅かな素振りを見せたが、そのまま振り返らず真っ直ぐ前を見て歩き続けた。気付いていないふりをしてやり過ごそうという算段のようだが、白々しい演技で誤魔化せるとでも思っているのかと、ゲラルトは溜息とも思えないほどごく短く、息を吐いた。
「おい、そこの女。」
そのまま数歩進んだところで、ゲラルトは低い声で、静かに呼び止めた。
必要以上に威圧感を与えないよう、極力穏やかに呼びかけているつもりだが、それがかえって威圧感を生んでいることにゲラルトは気付いていない。それでも目の前の女性はぴたと歩みを止めるのみで、少しの動揺も見せなかった。夜道で突然声を掛けられた女性の態度としてはあまりにも不自然で、人違いではなかったらしいことが伺い知れる。
「あら、不躾な方。女性に声を掛ける時は「こんばんは、お嬢さん」って言うものじゃないかしら。」
「くだらんな。何をしに来た。」
そこで始めて女性はくる、と振り返り、ゲラルトのほうを向いた。ゲラルトにとってはその女性は小柄で、見下ろした状態で目線がかち合ったが、女性はそれもおよそ気に留める様子はなかった。それどころか眼前に立つその姿を見てますます表情を明るくし、ふふ、と笑った。
「まあ、ウライオスの方だわ。私、こんなに近くで見るのって始めて。」
「問に答えろ。誤魔化しても無駄だ。…ミラビレ、お前の素性についてはわかっている。」
ミラビレ、と呼びかけた途端、これまで全く動じることのなかった女の“演技”が僅かに乱れた。ゲラルトはそれを察していたが、何も言わず、相手の次の言葉を待った。
女性はゲラルトを見て不思議そうに首を傾げたあと、何か考えるように少し俯いて、黙り込んだ。
待っていた「可能性」とは、ほかでもない、ミラのことだった。
この店に客が訪れる回数はそれほど多くはない――それが、外から見たこの店の印象だった。
同じ客が何度も仕立てを依頼しに来ないのは、評判が高いために予約が埋まっているからなのか、それともあの店主に振り回され二度と来るかと思うからなのかはわかりかねたが、その理由自体はゲラルトにとっては関心のない話で、気に留めることなく店の観察を続けていた。
たったひとり、その枠にはまらない存在がいることに気付くまでは。
切欠は、仕立てを頼みに来たのではなさそうな人物がここを訪れていると気付いたことだった。いつも決まって何か荷物を抱え、迷うことなくまっすぐこの店に入っていき、手ぶらになって帰って行く。
隠れるような神経質な足音、どこか感じられる警戒心の高さ、それに反して派手な身なり、隠しきれない癖。はじめ複数人いると思われた協力者は、実際は姿形が違うだけの同一人物だという推測に行き当たった。
ここから、この人物がミラだという結論に行き着くまでには、それほど時間はかからなかった。
元よりたちの悪い情報屋の話は何度も耳にしたことがあって、その特徴について予備知識は持っていた。最近この界隈で動いているらしいという情報は既に耳に届いていて、いつか鉢合う可能性もあるかもしれないと頭の片隅のほうに留め置いていたことも、その結論へ至る道を大幅に短縮させた。
内から閉ざされたものを抉じ開けるには、外からそれを開けられる力を上手く使うしか手がない。
黙ったままのミラの様子を見て、ゲラルトはまた静かに口を開いた。
「お前たちの目的を明かせ。すぐに話せば手荒な真似は、」
「ふーん、さすがに隊長様は違うねぇ」
言葉を遮るようにして喋り始めたミラの声色は、先ほどまでとは全く別人のようだった。夜道を明るく照らすかのように美しく咲き誇っていた笑顔は一瞬にして消え失せ、かわりにそこに現れたのは、ひどくつまらなさそうで、悪心に満ちた、まさしくこの場に相応しい闇。
なるほどこれがこの女の本質らしい――そう思った途端、ゲラルトの心は波打ち、ざわめいた。
動き出した、ようやく答えへ近づくための一歩を踏み出した。ゲラルトは妙な高揚感に包まれていた。
ようやくミラが顔を上げると、その大きな瞳はしっかりとゲラルトのほうを向き、口の端をくっと上げて笑っていた。月光を受けて怪しく光るその瞳は、星屑の光を全て吸い尽くしてしまう気さえした。
ミラは、不意にゲラルトの鼻先のあたりを人差し指でさすような仕草をした。
「私、頭の良い男って嫌いなんだ。」
ゲラルトが身構えた時には既に遅く、バチンと鋭く弾けるような音がして、その眼前が一度、真っ白になる程の眩く光に包まれた。
魔術師と呼ばれる人が使う力だ。目の前で起きたそれは殺傷力のない見かけだけのものだったが、ゲラルトの透き通るように青い瞳はその眩さに耐えられず、黒く覆われた不快な視界と、眩暈に似たくらりとする感覚に包まれた。ゲラルトはそれを押さえ込むように、咄嗟に片方の手で両目を覆い、珍しく苦々しい表情を見せた。油断していたわけではない、それなのに阻止できなかった。さすが性質が悪いと評判なだけあって、自分のペースに持っていくのが上手いわけだと思いながらも、ゲラルトはもう一方の手を大きく伸ばす。その一連の動作にかかった時間はほんの僅かだった。
ゲラルトの手が、脇を通り抜け来た道のほうへと逃げようとするミラの細い腕を掴む。掴んだ腕から、ミラの身体がびくりと跳ねたのが伝わってくる。ミラは予想していなかったことにひどく驚いたようで、その弾みで抱えていた荷物を落としたらしい重たい音がした。
ミラがわざとらしく聞こえるように舌打ちをした。はっきりとは見えないが、ゲラルトにはその表情がどんなものだったのか、凡そ想像できた。そして、次に起きるであろうことも。
厚めの布が激しく動いたときにする、ばさっという音が一度だけして、暫し静寂があたりを包んだ、その後。
ふう、とやや大袈裟に吐き出された溜息がその静寂を破った。
溜息をついたのはゲラルトだった。
いまだ明瞭に見えない不快な視界のなか、何度も目を細めたり視線を動かしたりしながら、ミラの背面側で、鈍く光るナイフを持ったその手をひねるようにして押さえつけていた。
腕を掴んだとき僅かにした金属の擦れる音と互いの位置関係から、ミラが次に起こす行動とその軌道を読むのは、容易いことだった。重いドレスを身に纏っているにしては俊敏な身のこなしではあるが、ゲラルトの基準を以ってすれば、大したものでは無かった。
「な、何で見えてるの!?」
「見えていない。今お前がどんな顔をしているかもだ。察しはつくが。」
普段通りの冷静な口ぶりは乱さなかったが、ゲラルトは少し落ち着きのない様子を見せた。先ほどの光と音で誰かが気付いてこちらに来てしまえば、ミラを逃がす口実を与えてしまえば、あの扉は永遠に閉ざされたままになってしまう。一刻も早くあの店へと踏み込まなければならないという焦りで、ミラを押さえつける手には自然と力が入った。
ミラが逃れようともがきはじめたことで、ゲラルトの意識は目の前の状況へと戻る。不必要な痛みを与えないようにとある程度加減していたつもりだったが、目の前のこの女は、多少の痛みを感じなれけば圧倒的不利だという事実を認めないだろうと考えたゲラルトは、表情ひとつ変えずにぐっと力を込め、もがくミラを強引に押さえ込んだ。
「うう、痛い…」
「当然だ。そうしている。」
「最っ低!女の子にこんな乱暴していいと思ってんの?私が叫んだら、駆けつけた人はこの状況をどう思うかな!?」
ゲラルトは心底呆れた様子でため息をついた。
夜道で女性を男が押さえつけているという状況だけを切り取ればミラの言う通りかもしれないが、ゲラルトがこの国で誰もが知る隊服を着ている以上は、誰が見ても悪人を取り押さえている状況にしか見えない。何より、騒ぎが大きくなって目立つと不都合なのはミラも同じはずだった。
ミラが挑発するように大きく息を吸ったのを見て、ゲラルトは後ろからもう一方の手でミラの口元を覆って言葉を遮った。
ゲラルトにとっては、場を制しているのがどちらかということを理解させられればそれで良かった。ミラは暫く抵抗してみせたが、圧倒的な力の差にどうにもならないことをようやく悟ったのか、狙い通り、急にしゅんと大人しくなり、小さく頷くように首を動かした。ゲラルトはその様子を見て、ぱっと口を塞いだ手を放した。
「さすが、隊長様は違うねぇ。んふふ。いつもこんな乱暴なことしてんの?」
「…。」
「ちっ、なんか言えよ。」
呼吸を整えたミラは、落ち着いた様子で、顔をホフマンの店のほうへと向けた。
「言っとくけど、別に私はあそこで何かしてるってわけじゃないよ。今のところはね。私はただ彼の友人なだけ。」
「そうか。ならば、あの店に入れろと言ったところで不都合は無いな?」
「アンタのほうが後悔することになるかもしれないけど。」
ゲラルトはミラのその言葉の意味が何となく理解できた気がして、一瞬黙り込んだ。
もう一度対面したら、あの店主は一体どんな反応をするだろう。以前と同じように、話を聞かずに物を押し付けてくるのだろうか、それとも招かざる客に疎ましい目を向けるだろうか。
そんなことをふと考えながら、ゲラルトはゆるりとミラの手を解放した。ミラがゆっくり振り返るのにあわせ、不意に手が刀の鞘を触った。
「そんな警戒しなくても、私に勝ち目がないことくらいわかってるから、馬鹿な真似はしないよ。」
「そうか。学習能力は持ち合わせているようで何よりだ。」
一瞬ミラの表情がひきつったのに、気づかないわけではない。挑発されてもなお、大人しくナイフを胸元にしまいこむ様子をみて、ゲラルトはようやく刀から手を放した。
ミラはふっとゲラルトを見上げ、地面を指差した。
「ほら、荷物拾って。アンタのせいで落としたんだから。」
「ん。ああ、悪かっ………た、か?私のせいではないと思うが。」
そう言いつつ落ちた荷物を片手で抱えて立ち上がったところを、乱暴に腕をつかまれる。拾ってやったのに何も言わないとは可愛げの欠片もない女だ、と悪態をつく間もないまま、ゲラルトはぐいぐいと店のほうへと引っ張られていく。ドアの目の前に立ったとき、ミラは一度ゲラルトのほうを横目に見て、一度ため息をついた。
軽くドアをノックして、ミラが静かに彼の名を、呼んだ。
「…お客さんだよ、ホフマン。」