黒地に金のダブルボタンのミドルコートに身を包んだその若い男は、とある任務に付き従う形で、繁華街の表通りから二本外れたところにある寂れた娼館を訪れていた。
男は国王陛下直属部隊”ウライオス”第二部隊に入隊してまだ日の浅い新人だ。非常に優秀な魔術師として魔術学校を卒業した彼は、入隊後研修ののち、人身売買組織の調査とその壊滅を管轄するマベ・マヘスの分隊に仮配属された。娼館は人身売買の組織と繋がりを持っていることも少なくはなく、この新人隊員もこれまでに何度もこういった店に調査に入っていた。
商売女は独特のプライドを持つがゆえに扱いが難しい。すんなり情報を吐く女ばかりではないとはじめからわかっているために、この分隊は上司の個別の許可を得ず交渉を行うことが許されているのだが、その方法は実に多岐にわたっている。新人隊員はまだ交渉自体に加わることはなく、その都度行われる交渉の記録を詳細に残し、資料に残す役割を担っていた。
「どんだけ脅したって話さないわよ。アンタらにするような話はなーんにもないんだから。」
目の前にある悪趣味なベットの端に座った女が、不機嫌そうな声でそう言い放った。女の身に付けている肩と胸をほとんど露出したコルセットドレスは白地に黒のレースが重ねられていて、品の良さが重視されたものではないことは一目でわかった。女は周りを取り囲む黒いコートを着た男たちを睨みつけている。
ここまで隊員たちがいくらか条件を出し、”ある情報”の収集について交渉を試みるも、女の主張は一貫して「話すことは何もない」だった。
隊員たちの求める情報について知っているとも知らないとも言わないまま、ただ時だけが無為に過ぎていく。
普通の女なら、とっくに情報を喋っている。
国内に住むものなら誰もが知るこの黒コートを着た体格のいい男たちに囲まれてもなお口を割らないのは、女がこの分隊を率いる”札付きの狂犬”の噂を知っているからだろうと新人隊員は勘ぐっていた。
蔑称にも近い二つ名を持つその男は、国王付きの部隊に配属されているとはと思えぬ程の品に欠ける罵倒台詞と、目に余る暴力的な戦い方で、この裏通りの汚れきった世界を根城にしている者たちの中ではよく知られた存在だ。
一方で、彼は敵組織には一切の容赦をしないが、一般市民を傷付けるのを良しとしないことも知られている。
他の隊員たちのやや後ろで記録をつけていた新人隊員は記録用の紙から目線を上げて女の方をちらりと見たが、女は変わらぬふてぶてしい顔をしたまま沈黙を続けるだけだった。
次の手を考えなければならないとわかってはいるものの、例の禁じ手は今日に限っては使えない。数日前から”狂犬”と揶揄されるマベ・マヘスが不在を続けているからだ。
その時、部屋の扉が静かに開いた。
全員がはっと視線を向けた先から、靴底でくぐもった音を鳴らしながら歩いてきたのは、普段この分隊を率いる黒眼鏡の男では無かった。
金色の髪に冷たく刺すような青い目。一歩進むごとにロングコートの裾から見える葡萄酒のようなボルドーの裏地。
数日前に”何らかの戦闘を行い”負傷したマベ・マヘスにかわってこの場に現れたのは、ウライオス第二部隊の全体を率いる部隊長、ゲラルト・シェズムだった。
新人隊員はその人の姿が見えると、思わず記録用のペンを強く握り、ほんの少し俯いた。
その人は、同じ部隊に居ながら、雲の上の存在のようだった。
国内のどこに行っても上位魔術師と持て囃される隊員たちですら遠く及ばない力を持つその人は、一切の隙も容赦も無く、訓練中に武器の先をほんの僅か掠めることさえかなわない。新人隊員はまだ直接訓練についてもらったことさえなく、先輩たちが必死に食らいつくも攻撃を軽く受け流されているところを遠くで眺めるばかりだった。
国内最強と言われるほどの魔術師である部隊長と同じ現場に出ること自体、新人隊員にとっては本来ありえないことだった。その緊張感や何か言い表しようのない感情から、つい俯いてしまったのだった。
ゲラルトがある隊員に無言のまま視線を送ると、その隊員は一度だけ頷き、他の全員に部屋の外へと出るように促した。
薄暗い部屋の中には、ゲラルトと若い娼婦だけが残された。
「ねえ、さっきも別のヤツらに言ったけど、私らみたいに男と寝ることしか能のない女を脅したって望んでるようなものは出てこないわよ。」
女は先程までの不機嫌な顔から打って変わって、ゲラルトへ熱っぽい視線を送りながらそう話した。その視線の先に立つゲラルトは冷たい表情をぴくりとも変えることなく、女の様子をじっと見ていた。それを”見ている”という表現するのが正しいのかもわからないほど、刺すようにその視線は鋭い。
「不確定情報で動くほど、私たちは暇ではない。」
「そうねぇ、アンタいい男だから、抱いてくれたら教えてあげてもいいわよ。アンタたち、善良な市民には手出しはしないんでしょ?」
女は体の片側に手をついて、目の前に立つゲラルトを挑発するように首を傾げて見せる。
その様子を隣の部屋から覗き見ていた新人隊員が、ふと口を開いた。
「……あの。隊長はどうして私達をこっちに移動させたんですか?」
「お前まだ”アレ”を見たことないんだったな?」
「アレ、って、まさか。隊長もマベさんみたいに女に乱暴する気じゃないですよね。」
「隊長がそんなことするわけないだろ。ただ、交渉の仕方はマベよりかなり乱暴だと思うぞ」
他の隊員たちが顔を見合せて僅かに笑いあうのを見ても、新人隊員は理由がわからずただ眉を顰めた。その表情を見た先輩隊員たちが肩をすくめていたのには気づいていたが、ひとりだけ蚊帳の外にされたようでいい気分がせず、新人隊員はそれ以上追求することをやめた。
「ところでお前、免疫あんの?魔力干渉への耐性。」
「ありますよ。それくらい無いと入隊できないでしょう。」
隣の部屋から、ゲラルトがベッドに膝をついたらしい軋む音が聞こえ、隊員たちが一斉にそちらに意識を向ける。
「おい、始まるぞ!」
いつもと違い、皆が興奮気味に壁に張り付いて様子を伺いはじめる。それを不思議に思った新人隊員はまた少し不機嫌を顕にしたが、彼もまた記録のため隣の部屋の方へ注意を向けた。
覗いた先には、女のすぐ隣に座るゲラルトが女の背と後頭部に手を回し、肩口の辺りに女の顔を押し付けるようにして抱き込んでいるのが見えた。女の表情は見えないが、自ら誘いをかけた相手の腕の中に収められ、それを黙って受け入れているのだから、どんな顔をしているのかはおおよそ察しがついた。自分もあの女と同じ状況なら、という考えがよぎったところで、新人隊員はその考えを否定するかのように軽く頭を横に振った。
隣の部屋から見えるゲラルトの横顔は印象的だった。瞬きひとつせず女の髪に少し頬を寄せ、全くの無表情で何かをじっと考えていた。男と女が金を介して体を重ねるための薄暗い娼館の部屋に似つかわしくもない実に真剣な表情は、此処に出入りする欲を抱えた人間、欲に溺れた獣とは遥か遠い。
「うふ、見た目より厚い身体してるのね。その隊服の下はどうなってるのかしら。」
「……お前、魔術師だな。」
機嫌のいい声色で尋ねた女の言葉に被せるようにして、ゲラルトがぴしゃりと言い放った。女は射抜かれたように一度ぐっと身を強ばらせ、言葉が詰まった後、また同じような調子で喋り始めた。
「まさかぁ、どうみたってただの商売女よ。」
「物分りの悪い女だ。」
「え?」
その瞬間、狭い部屋の空気を丸ごと変えてしまうような、甘く芳醇な香りが広がる。隊員たちにも女にも見えない角度から、僅かに引き抜かれた刀が鞘に収められたらしい固い音が短く響いた。
ゲラルトが自ら傷付けた腕を伝う血液から匂い立つ、よく熟成された果実の匂いに混じったバニラのような甘い香り。それは彼が体内に過剰に溜め込んだ魔力が発するものだった。
新人隊員はゲラルトの固有魔術を詳しく知らなかった。魔力は人体に有害とされ、基本的に体内に貯めておくことはできないとされているが、それを完璧に制御して体内に留め、術式を展開するときの魔力取り込みにかかる時間を省くことができる上位魔術師は少数だが存在する。国王直属の部隊に属する新人隊員自身もまた、その一人だった。
それでも、周囲が認知できる程に高濃度の魔力を体内に留めおける人間など一度も見たことがなかった。本来それほどの魔力を取り込めば人は簡単に狂ってしまうはずなのに、その化け物じみたしろものを体内に飼い続けている部隊長の底知れない力を目の当たりにして、背筋がくすぐられるようなぞわりとした感じを覚えた。
今見た光景をありのままに書き記そうとペンを動かしたところで、隣にいた別の隊員に制止され、はっと目を見開いた。これは”公にされるべきでない”術式なのだと悟った新人隊員は、言い知れぬ感情とも欲望ともつかない薄暗いものが自分の奥底から湧き上がるのを自覚したところで、それを意識の外へ追いやろうとするかのように隣の部屋で起きていることへと視線を戻した。
呼吸とともに吸い込まれるその甘い香りに全身を蝕まれ、女は思わず口元を抑えた。見開いたままになった焦点の怪しいその目と激しく上下するその肩が、”魔術師なら嫌でも感じる”その空気の異常さを物語っている。
吸い込む度に頭の中も身体の中も隅々まで侵され支配されるような感覚に、女は思わず首を横に振った。
「どうした。”ただの商売女”だったんじゃないのか?」
「わかった、わかったわ、もうやめて……。そうよ、私ら狙えって指示された客に抱かれるフリして、組織の元に送ってるのよ。私が言えるのはこれだけ!」
「送り先の場所は。」
「やめてよ、そんなの言ったら私、殺されるかも……」
殺されるかも、と言った女の言葉にゲラルトは少し首を傾げた。
滲んだ血液が白いシャツの袖を湿らせていくことを気に留めず、赤く濡れた手のひらで女の頬を撫でる。甘く香るその血の匂いに理性が揺さぶられ、軽く撫でられただけで頬から全身へゾクゾクした感覚が駆け巡る。女が恐怖に顔を歪ませると、ゲラルトは目を細め、女の耳元で囁くように何かを命じた。その内容にも、女は何度も頷くことで答えることしかできなかった。
「……あの。吐きそうです。」
「お前耐性あるって言ってなかったか?何気持ち悪くなってんだよ。女が情報吐く前にお前が吐いてどうする?」
「気持ち悪いっていうか、なんか気持ちいいって言うか……」
「あー……おいおいやめろよ、任務中に出すんじゃねぇぞ……」
女がぽつりぽつりと情報を吐き始めた。
場を支配するゲラルトの魔力の香りにあてられた女の言葉は途切れ途切れで、時々嬌声にも近い声と、懇願が混じる。時折女が苦しさを紛らわせるように身を反らせようとするのを、ゲラルトが強引に両腕で抑え込み、その度に女の身体はまるで達しているかのようにビクビクと痙攣していた。
「もう、いいでしょ……」
「ああ。よく気を失わずに最後まで言えた。」
「離してよ、このっ……××××男……!」
暴言を吐かれてもピクリとも表情を動かさなかったゲラルトが、女を抱える両腕を離すと同時に、何かを思い出したように天井を見上げた。
「客を直接送っていたと言ったな。つまりお前は加害者だということだ。」
「…………」
「”手出しは許される”ということだな?」
「やめ、」
女が咄嗟に何か言おうとしたその時、まだ鮮血の流れるゲラルトの左手首が女の口元に押し付けられた。言葉を発するために開けたその口に血液が流れ込み、女は凡そ人間とは思えない意味のわからない言葉を叫ぶと同時に、身体を大きくビクンと跳ねさせ、そのままベッドに倒れ込み全く動かなくなってしまった。
「終わったな。いやー、すごいもん見たわ」
「待ってくださいよ、吐きそうなんですってば……」
どこか嬉しそうな声色で話す隊員たちが部屋を出た直後、隣の部屋から出てきたゲラルトは慣れた手つきで手首に包帯を巻きながら、一番年長の隊員に何かを伝えた。
新人隊員はまだ鼻の奥に残るあの独特な匂いに頭がぼーっとしたまま、目の前で行われる会話のほとんどが耳に入らなかった。唯一はっきりと覚えているのは、その様子をちらりと一瞬だけ見たゲラルトが小さくため息をついたことだけだった。
新人は何となく顔を赤くして背け、意味のない言葉をひとつふたつこぼした。
「な?俺らの隊長はスゲーだろ?マベが惚れるのも仕方ねぇよな」
「マベさんが、ですか?」
「アイツだけじゃない。隊員全員があの人に惚れてんだよ。」
「……。」
「お前も相当ヤられたみたいだな?やめとけよ、そういう意味で惚れんのは。」
「ち、違っ、」
他の隊員たちが短く鼻で嗤うのを聞いてますます顔を赤くした新人が急に片手で口元を抑えたその先で、血を纏うその人は一度も振り返らずに娼館を後にした。