00. Unknown

もはや、この部屋からは血の匂いしかしない。

ゲラルトは不思議な高揚感に包まれていた。返り血なのか自らの血なのか判別もつかないほど身体中を赤く染め、握った刀の先に転がる一人の人間を氷のように冷たい瞳で見下ろしていた。
白衣だったものを身に付けたその男は、刀を突きつけられ死が目の前に迫っているとは思えないほど、穏やかで柔らかな表情をしていた。
このふたり以外、もう他に誰も生きていない。ゲラルトの袖口から滴った雫がぽたりぽたりと床に落ち、静まり返った部屋の中にその音だけが響いた。

「私は幸せだ、この中で死ねるなんて」

白衣の男が口を開いた。この期に及んで何を言っているのか、とゲラルトは少し目を細めた。

「小鳥の姿を見ることはついに叶わなかったが」

白衣の男は目の焦点がまるで合っていなかった。独り言なのか判別がつかないほど虚ろな声で、ぽつりぽつりと言葉を吐き出していく。
狂っている――、ゲラルトはそう思った。血の匂いに高揚している自身も他者から見れば狂っているのだろうが、目の前のそれはもっと病的で、異常だ。

白い壁に白い天井、単調で全く色のないこの空間は、とある研究所の一拠点だ。
人の姿をした者がヒトを作為的に操作し、歪な能力者を生み出す――、かつて医療研究の拠点として機能していたこの場所が狂い始めたのは、もう随分と前のことらしい。いつしか人の命を守ることの意味を履き違え、彼らは理想の人間を作り出そうと躍起になった。

小鳥とは恐らく、彼らの掲げる理想の存在のことを言うのだろう。

ゲラルトは歪な”固有魔術”を持ち、武装した大勢の人間を相手にしても圧倒的な力量で抑え込むことができるが、その人間離れした力をもってしても、この空間に入り込むのは容易いことではなかった。
研究所には不思議な結界がはられていて、外側にいる人間にはその姿を見ることすら叶わない。その仕組みはどんな魔術師の力をもっても解析できず、それは魔術とは異なる人知を超えた者の作ったものであるが、人間が破ることは限りなく不可能に近いだろうということだけがわかっている。

研究所へと至る入口は、認識によって開かれる。
単なる扉のような姿をしてそこにあり、そうとは知らない人間が開け放ったとしてもそれはただの扉でしかない。そこにこの空間があると認識している人間が開けて始めて入口としての機能を果たし、その内側には外観を全く無視した空間が広々と拡がっている。

仮に入れたとしても、外に出る時に記憶が操作され、ここで見聞きしたことは全て曖昧な記憶になってしまうため、いまだにその場所や詳細の全容は掴めていない。中で働く人間ですらも例外ではなく、彼らもまた、外に知られてはならない記憶を出入りの度に操作されているらしい。
この中の全ての記憶を持つのは幹部クラスの研究員たちと、ここに入ったことを誰にも知られずに外に出られた者だけだった。

そうして、人ならざる者の力によって守られたこの”神域”は、いまだ野放しのまま国内に点在している。

白衣の男はゲラルトと自分の胸に突きつけられた刀の刃先を交互に見た。

「私を殺したら記憶を持って帰れるんだね。」
「私の姿を見た人間は他にもう居ない。お前が死ねば、必然的にそうなる。」
「残酷な人だ。君を逃したのは本当に大きな損失だったね。」

残酷なのはどっちだ、とゲラルトは内心悪態をついた。
そもそもゲラルトが人間離れした歪な能力を手にしてしまったのは、かつてこの研究所の被検体だったからだ。
元々魔力過多の体質を持って産まれたゲラルトは、彼らによってその身を改悪され、化け物じみた力を手にした。通常の人間なら簡単に狂ってしまうほどの魔力を身体に溜め込み、自分の意思に関わらず、出血によってそれを引き出される。その時に放出される質の良い魔力は研究に大いに役立てられていたらしい。運良くここから逃げ仰せたが、そうでなければ今頃どうなっていたのかと思うと背筋が凍る。
人ではなくモノとして扱われていたその時の記憶は、吐き気を催すほど残虐だった。縛り付けられたまま魔力を溜め込んでは身体を痛めつけられた経験は、遠い過去の話となってもいまだに思い出したくない。そんなことを無表情でやってしまえる奴らに残酷だと言われる筋合いは全く無かった。

「とは言え、君ですら小鳥に傷ひとつつけることは叶わないだろうね。今までここに入り込んだ奴等は皆そうだった。」

ほとんど感情の乗らない表情のまま、ゲラルトが僅かに目を見開いた。
同時に、その身体に溜め込まれた魔力が発する、独特な果実のような香りがわっと湧き出した。

「呆気なく無意味に死んで、――」

次の瞬間、ゲラルトは力任せに刀を床まで突き立てていた。男の言葉はそれに遮られ、呻き声をあげる間もないまま動かなくなった。

「死にたくて死んだわけではない。誰も、」

ぎり、と強く握られた刀の柄と皮の手袋が擦れる音がした。ゲラルトは俯いたまま、ひとつ、ふたつと呼吸を繰り返したが、次に顔をあげた時には、いつもと同じあまりにも感情のない表情へ戻っていた。

ここですべきことは終わった。ならばこの血の匂いの中に長居する必要は無い。ゲラルトはゆっくりと刀を鞘へと戻し、外へと繋がる扉へと手を伸ばした。