彷徨える風(M Another ver.)

 

 

その男は嵐と呼ばれていた―――

 

 

0-1.

彼が生まれたのは山間の小さな村だった。いつも風が吹いては草木を揺らし、その草を羊たちが食べては流れる雲を見上げていた。一年のうち時折やって来る暴風に悩まされながらも、村人達は助け合い、自然とうまく共存している。そんなのどかな場所だった。

時が経ち、彼は風を操る“陣無し”であることが判明した。魔術を行使する場合必ず魔術陣が展開されるが、彼は生まれながらにしてその過程を飛ばし、人より何倍も速く術式を発動できた。こんな辺境の地で魔術師として才覚ある者が産声を上げたことに村人達は大いに驚いた。

しかし魔術師は良い目で見られることはない。年々増加する魔物を討伐するには彼らの力が必要だったが、平生ではその力ゆえに畏怖され、忌み嫌われ、歪んだ信仰により崇め奉らることもある存在だった。

彼らはそんな運命に翻弄されるであろう彼を大事に育てた。両親は彼を愛し、他のきょうだいと分け隔てなく育てた。きょうだい達も彼を可愛がり、特に一番上の兄はいつでも彼の味方だった。

「お前は俺の自慢の弟だよ」

そんな兄の言葉に幼い彼は喜び、また誰に対しても優しく寛大に振る舞う兄を心から尊敬した。

彼は山野を遊び場とし、岩山を跳び、吹き荒ぶ風を我が物として自由に駆け回った。守られるようにして育った彼は、いつしか皆を守りたいと思うようになった。

 

やがて適齢期を迎えた彼は兄とともに家を出て王都に赴き、軍に入隊した。彼の魔術を見た上官は、すぐさま彼を前線に送った。

兄も魔術師であったが平凡の域を出ず、戦線を後方から支援する大きな部隊に入ることとなった。

弟はめきめきと頭角を現していった。少しずつ自由な時間は失われていったが、時間が合えばきょうだいで顔を合わせ、酒を酌み交わしながら昔と変わらず語り合った。

心優しい兄弟だったが、ひとたび戦場に立てば弟は荒れ狂う風を起こし、糸のように細い風を指で操り魔物を切り刻んで殺していった。

彼の起こした嵐が過ぎ去る頃には、無数の原型を留めない死体が血と土にまみれて転がっていた。仲間の魔術師たちはそんな彼を嵐と呼んだ。何も知らない者達は、彼を“狂嵐(きょうらん)の魔術師”と呼び恐れた。

それでも魔物の増加は止まらなかった。いくつもの街が捨て去られ、荒れ果てた土地が少しずつ広がっていった。

 

 

0-2.

ある時弟は、崩壊寸前の戦場へと旅立つことになった。彼の一手で戦況を覆す、いつもの手筈だった。

ところが魔物は後方の部隊を奇襲した。その一報を受けた彼は皆が止める間もなく兄のいる場所へと飛んでいった。

そこで目にしたのは、見たこともない禍々しい姿をした、黒い大きな怪物だった。そして空中には今まさに、魔物の大群を吐き出そうとしている黒い巨大な穴がぽっかりと空いていた。

彼の目の前に兄はいた。全滅した仲間達を背に、魔物に一矢報いようとした瞬間、兄の胸は魔物の手によって貫かれた。

弟の薄茶の瞳が見開かれた。

声すらでなかった。

魔物は、まだ息のある兄を飲み込んだ。2本の脚が弱々しく抵抗しながら巨大でおぞましい口の中へと消えていった。

鈍い音を立てながらその醜い体が変形し、その上半身に兄の体を生やした夥しい脚のある蜘蛛のような姿へと変貌した。空にあいた巨大な穴はありったけの魔物を生み出すと、目を細めて嘲笑うかのように小さくなって消えた。

兄の閉じた目がカッと見開かれ、彼と同じ色の瞳が、白目がなくなるほど膨れ上がった血管に潰された。

全てを巻き込む巨大な嵐が彼らを飲み込んだ。それは兄を取り込んだ魔物が生み出した、膨大な魔力の奔流だった。

反射的に弟は自らの力を解放し、嵐に嵐をぶつけた。

 

そこからは断片的な記憶しかない。

 

最後に目にしたのは、彼の風の糸によって首を断ち切られた兄の優しい顔だった。

断末魔を上げる魔物の本体が咄嗟に彼の魔術を模倣して造った風の糸で、彼の視界を横一文字に薙ぎ払った。

酷く眩しい痛みが彼を襲った。

 

 

嵐が去ると、そこには何も無い荒野が広がっていた。

抜けるような青空の下で、彼は両の目から血を流し、兄の亡骸を抱えて絶叫した。

激しい痛みと空の眩しさだけが、鮮やかで。

 

 

ああ。

救えなかった。

あんなにたくさん殺してきたのに。

ずっと守ってもらっていたのに。

村のみんなが、温かく送り出してくれたのに。

あんなに愛してくれたのに。

なにひとつ返せなかった。

 

ぜんぶ、ぜぇぇんぶ、お終いだ。

 

 

―――こんなおれに、意味などない。

 

 

0-3.

彼は戦場から姿を消した。

上官や仲間は引き留めようとしたが、光を失った彼は見向きもしなかった。故郷に帰ることすら考えず、あてもなく王都を出て、痩せた土地を彷徨った。

自分の生には意味がなかった。

ずっと、強くなって皆を守ることだけを目標に生きてきたのに。

いや、いや、その先には兄の笑顔を求めていたのだ。昔のように頭をぐしゃりとかき混ぜて笑ってほしかったのだ。すっかり大きくなって背丈も自分のほうが上になったけれど、一緒になって笑う家族や村人達をいつまでも見ていたかったのだ。

それを自らの手で壊してしまった。

あの時死んでおけば。

いや、それも、ただの逃げだ。

彼は考え続けた。何が罰になるのか、何が罪滅ぼしになるのか。ひと思いに死ぬなど生ぬるい。もっと罰を、何も成せなかった自分に最大の苦しみを。いやそれすら言い逃れだ、ではどうすればいい?

何日間も飲まず食わずで歩き続けた。辛い、もう死ねるかもしれないと思っても、鍛え上げられた肉体はそう簡単には倒れようとしなかった。

強くなるためにこうなったのに。自身の体さえ忌まわしかった。

野垂れ死にするかと思っていたら、どこかの街にたどり着いたらしかった。結局は人恋しいのかと自分を嘲笑う余力も残っていなかった。

石畳の道を踏みしめる。周囲がざわついているのも、もう気にならなかった。久しぶりに聞く人の声が、ずいぶん耳の奥まで響いた。着の身着のままの汚れきった彼を歓迎していないことは容易に聴き取れた。

何かの建物の前まで来たところで蹴躓き、手をつくこともなく倒れ伏した。痛みは感じたが、目の傷の疼きのほうがよっぽど酷かった。

もういい。やっとだ。

そう思って眠りに落ちようとしたとき、扉の開く音がした。

「うわっ!?」

……これが最期に聞く人の声か。

「大丈夫か!?うわ見た目の割に軽っ!!どれだけ長い間食べてないんだ!?」

………うっせえなあ。よく聞いたらオッサンじゃねえか。何度「うわっ」て言うんだよ。

おちゃらけた声しやがって。とっとと死なせてくれよ。

「こんなところで寝るんじゃない。こんなに弱っていたら風邪引いただけで死ぬぞ!」

……………それが望みなんだがな。

「……ルト!……ルト!!手伝ってくれ!!」

…………………誰だよ。

ああくそ、騒がしいな。

頼むから。

「………死なせてくれよう………」

やっとのことで絞り出した声に、男の動きが止まった。

 

「馬鹿野郎」

 

その声だけは、真剣だった。

彼はゆっくりと意識を手放した。

 

 

0-4.

彼は数日間目を覚まさず眠り続けたらしかった。心地よいシーツの感触に目を開けると、そこは暗闇だった。

「気がつきましたか?」

かなり近くで若い男の声がした。少年といってもいい。抑揚の少ない、やけに大人びた声だった。声を出そうとしたが、喉がカラカラで息すら通りにくい。

「今、水を持ってきます」

少年の声が離れていった。木の床の軋む音がして、すぐに戻ってきたようだった。

「……身体を起こしますね」

少年の手が背中と胸元に触れた。久しぶりの感覚に身体がびくんと跳ねた。

「大丈夫ですよ。ここは教会です。神様が貴方を守って下さいます」

その言葉に、力の入らない身体にほんの僅かに火が灯ったようだった。

「……みなんて、」

喋りかけた唇にコップの端がくっつけられ、冷たい水が口の中に流し込まれた。激しくむせる彼に焦った少年が背中を強く叩く。思った以上に力が強い、というか痛い。

「強いって……!」

「えっ…?あっ……すみません」

慌てる少年の後ろから足音が近付いてきた。

「おう、気がついたか」

最初に彼を助けた男の声だった。むせた勢いそのままに、少年の手を振りほどくようにベッドから身を乗り出した。

「……なんで助けた。死なせてくれっつったはずだ」

「人に助けてもらったらまずはありがとうだろう。親に習わなかったか?」

「助けてくれなんて言ってねえ」

「そうか?俺にはそう聞こえたが?」

男が彼の傍へ近づいてきた。足捌きが普通の人間と違う。

「……お前何者だ」

「この教会の神父だ」

「嘘つけ。普通の人間の歩き方じゃねえ。テメエ、軍人だろ」

「さあ、どうだろうな?そんな時もあったかもしれんが」

明るく笑う男の傍で、先程の少年がなんとなく呆れているようだった。

「一刀さん、しっかり説明してあげないと。この方は目が――」

「余計な気を回すんじゃねえよ、クソガキが」

少年の言葉を遮った瞬間、ほぼ無意識に彼の魔術が発動した。外でドウと風が唸り声を上げ、すぐそばでガタガタと窓枠が軋む音がした。

「…………っああ、」

急に全身から力が抜けた。

仰向けのままベッドに倒れ込み息を継ぐ。外の風は止み、窓枠の鳴る音も収まったようだった。

「無理をするな。身体はまだ万全じゃないんだ」

「クソが………、……俺なんて生きてたって……」

悪態をつき腕で目元を隠した彼に、少年が目を細めた。一刀と呼ばれた男も黙って彼を見ていたが、ふと何かを思い出したように表情を変えた。

「少し、待ってろ」

少年と二言三言交わすと、彼は部屋を後にした。

 

 

暫くするとどこからかいい匂いがしてきた。

鼻をくすぐる懐かしい匂いに、目元を覆っていた腕を思わず離した。

食器の音と足音が近付いてくる。

「まずは食え。込み入った話はその後だ」

少年に抱き起こされると、太ももの上に固いものが置かれた。立ちのぼる素朴な肉と野菜の香りに、心がぐらりと揺れた。

「一口でいいから食ってみろ」

スプーンでその料理を掬ったのだろう。金属が皿に当たる小さな音と、ふうふうと料理を冷ます息づかいがすぐそばで聞こえた。唇のすぐ近くに温かさを感じた。

「どうぞ。…一刀さんの料理、美味しいんですよ」

少年の声に、僅かに感情が乗った。

少し口を開けると、おそるおそる顔を近づけた。唇にスプーンの先が当たり身を固くしたが、温かい液体が触れるとそっとそれを啜った。

口いっぱいに、温かくて優しい味が広がった。

「……………?」

無言で手を伸ばされ、少年は困惑した。

それが自分で食べたいという意思表示だと気付くと、スプーンを彼に握らせ、その片手を握ると、彼の膝に載せた木のトレーの上のスープ皿に触れさせた。

一刀は不器用に食べ始める彼とそれを手助けする少年に目を細め、少し離れたところで彼らが食事を終えるまでじっと見守っていた。

 

 

0-5.

「すっかり元気になったな」

一刀にそう言われ、彼は照れ臭そうに顔を背けた。

「いつの話してんだよ…」

「いやーあの時は本当にビックリしたんだぞ!あの後鍋の中身を全部平らげるわ、俺と二人きりになった途端におんおん泣き出すわ、歩けるようになったと思ったらあちこちぶつかるわで、これが若くて可愛らしいドジっ娘だったらなあって何度も」

「ブッ殺すぞエロ神父………その話、ルトには絶対すんなよ?」

「わかってるわかってる」

「本当にわかってンのかねえ!?」

 

日課を終えた二人は、教会の中庭のベンチに座り初めて出会った日のことを語り合っていた。

いつものように笑っていた一刀が、ふと真顔になって彼の顔を見た。

「お前、いつになったら名前で呼ばせてくれるんだ?」

彼は決して自らの名を口にしなかった。あの日、一刀が彼の出身地の郷土料理であるスープを出した時、この盲目の男が誰なのか、おおよそ見当をつけていたのだろう。

だから彼は家族名だけを名乗った。それは自分という存在を否定する、唯一の手段だったのだ。

「あんたが何者なのか教えてくれたら、呼ばせてやるよ」

「俺はただのエロ神父なんだろ?」

「ただのとは言ってねーよ。目が見えてりゃあんたなんて、一瞬でコテンパンにしてやんのによう」

冗談めかして笑うと、一刀のほうはどこか真面目な顔で微笑んだが、それは彼には見えなかった。

 

ふと、彼の嗅覚が不穏なにおいを感じ取った。離れたところで人の叫び声がする。一刀も彼の強張った表情に気づき、二人は立ち上がった。

「一刀さん!」

修道院の建物からルトが勢いよく走ってきた。彼らを見送るために一歩下がり、二人を見つめた。

「行ってくる」

「神父様、教会を頼みます」

二人の言葉に彼は頷いた。

この街を守るために、教会の聖職者達は今日も戦いに身を投じる。

今はこの場所を守る側に徹しているが、神父となった彼もいつかはまた戦場に立たねばならない。果たしてそれが、自分にはできるのか。

 

 

ふと、風の向きが変わった。

何か悪い予感が全身を駆け巡り、それを自覚する前に彼は教会を飛び出していた。

 

あの時と同じだ。

 

何かに心臓を掴まれているような、鈍く、それでいて早鐘のような鼓動。

あちこちに身体をぶつけて転びそうになったところで魔術を展開し、彼は一陣の風となって二人のいる場所へと飛び込んで行った。