マベ・マヘスという男

 

「…………………。」

隣の部屋から聞こえてくる物音に、若い隊員は固唾を飲むしかなかった。ギシギシとベッドが軋む音、控えめな女の息遣いと時折漏れる声。それ以外には何も聞こえない。

入隊したばかりのこの隊員は、マベの任務に付き従う形で娼館を訪れていた。マベの管轄は人身売買組織の調査とその壊滅であり、今回もある組織の手がかりを掴むために、組織の重要人物が足繁く利用しているこの娼館に訪れたのだった。

組織の男に囲われている女はすぐに見つかった。まだ客のいない部屋に踏み込んだが女は思ったよりも口が固く、どれだけ隊員たちが強い言葉を使っても組織に関する内容は一言も発しなかった。そこからはマベの仕事であり、後から現れ女の前に進み出た彼を残して隊員たちは部屋を後にした。慣れた様子の先輩隊員らに促され、出て行くフリをして隣の部屋に入って思い思いの場所に腰掛けて、そう経たないうちに状況が一変したのだった。

「…俺達、何を聞かされてるんだろうな…?」

先輩隊員の一人が呟いた。入隊したばかりの隊員を和ませようとしたのか半笑いで、その場にいた全員が笑みを漏らしたが、皆どこかギラついた目で所在なさげに身体を動かした。

「まさか、マベさん…女に乱暴な真似を?」

気まずい中、冗談を言った隊員に向かって聞いてみた。

「まさか。何も聞こえなかっただろ?女のほうからだよ」

「え…?」

「いつもそうなんだ。ごく稀にお前の想像するようなことになるときもあるが、いつも女のほうが絆される。」

「………ぁ、…………」

女の声が聞こえ全員すぐに黙りこくった。ベッドの軋む音がしなくなり、一瞬の静寂が辺りを包む。隊員達の表情が険しくなった。

再びギシギシという音。そこに先程より甘い女の喘ぎが混ざり始めた。一人の隊員が立ち上がり、壁の横に膝をついた。来いと手で促され若い隊員は立ち上がって、隣に座り込んだ。

「……!………、………っ、………。……!」

だんだんと激しくなっていくベッドの軋む音と女の喘ぎ声に困惑し、目の前の隊員に目をやったが、もうその表情は仕事に没頭する冷静なそれに変わっていた。

「………喋るぞ。」

「………?」

なんのことかわからない新人隊員に、先に膝をついた隊員が壁を指差した。そこにはちょうど片目で覗けるくらいの穴が空いていた。

「覗け。女が喋る。」

「………!!」

女の激しい声がした。若い隊員は咄嗟に壁にへばりつくようにして隣の部屋を覗き込んだ。

広い寝台が真正面に見えた。隊員の目線よりやや上に、女の顔が思ったより間近にあった。女は激しく前後に揺さぶられる身体をベッドに押し留めようと両の手でシーツを固く握り締め、苦悶と快楽に顔を歪めていた。そのだらしなく開いた口から苦しそうな息とともに、喘ぎ混じりの言葉が漏れ出した。

「……は、……に……!……だから、………って………!……ねぇ……もっと…、……が、…………なの……!!」

耳に入る声はところどころ不明瞭だったが、はっきりと見えた女の唇の動きで、何を言っているのかが理解できた。卑猥な言葉混じりで聞くに耐えない部分もあるが、まぎれもなくそれは、隊員達がどれだけ脅しても口を割らなかった今回の任務の重要事項だった。

「……本当に、喋ってる……。」

思わず隊員が口にした。

「一言一句聞き漏らすなよ。マベさんはお前のために声一つ出してないんだ」

隣についている隊員にそう言われ、はっとして女の後ろを見た。隊員の顔から血の気が引いた。

コートを脱いだ姿で女の腰を後ろから掴み激しく突いているマベは完全に無表情だった。虚無だとかそういうものではなく、意志を持って我を殺した凄まじい形相だった。

マベがその長躯をグッと折り曲げるようにして女に覆い被さり、こちらへ顔を向けた。黒眼鏡の奥の濁った吊り目がまるで嘲笑うかのように隊員を見据え、口の端を歪めて笑った。明らかにこちら側を意識したその姿は、まさに獣のようだった。

「ひ、ぃ……!!」

思わず零れた隊員のうめき声は、女の極まってしまいそうな声に掻き消された。

マベが笑みを消し女の耳元で囁いた。あまりに直接的なその言葉に隊員は頭が真っ白になりそうだったが、女はそれに何度も頷くことで肯定を示し、男への懇願を交えた自白を続けた。その褒美と言わんばかりにマベの手が女の胸を鷲掴みにして捏ね回した。

唐突に女が甲高い声を上げながら仰け反り、激しく痙攣したかと思うと、がくりとその身をシーツの上に投げ出した。

しーんとその場が静まり返った。

他の隊員達が一切に立ち上がった。呆然とする隊員の目線の先で、マベは既に立ち上がってコートの袖に腕を通していた。腰を突き上げたまま失神している女には目もくれず、先程から変わらない冷めた表情のまま、部屋から立ち去っていく。

「行くぞ。……新人には必ず見せろって言われてるんだ。ま、いいモノ見れただろ?」

肩を叩かれ若い隊員は我に返った。隊員達の後ろ姿を見て、慌てて立ち上がった。

窓の外からしとしとと音がする。その時初めて、雨が降っていたことに気が付いた。

 

 

 

「クソみてえな女だったぜ」

部屋から出てきたマベは開口一番にそう吐き捨てた。他の隊員達はすでに娼館の外へと出た後だった。彼を待ちながら女の言葉を紙に書き留めていた若い隊員は、マベの言葉にぐっと気持ちを押さえ込んで聞いた。

「……何がですか?」

「あのアマやけに意地を張るからちったァ骨のある奴かと思ったら、俺がちィと擦っただけで簡単に吐きやがった。ナメやがって。あんな女ァ囲ってる男もクソだ。」

「……ひとつ、よろしいでしょうか?」

「あァ?なんだよ」

不機嫌さを隠さないマベに、隊員は手にした紙から目を離さずに質問した。

「…こんなことをしなくても、連行するなりもう少し手段を変えるなりして尋問すればよかったのでは…」

「お前らが口割らせられなかったから俺が出たんだろうが」

「…………。」

隊員は俯いて黙りこくった。その様子にマベはゆっくりとこちらへ歩み寄り、背を屈めるようにして顔を近づけてきた。

眉間に深い皺を寄せた目つきの悪いその顔は、敵対組織の人間ではないかと思うほどに凶悪だった。

「本部にしょっ引く手間と時間をかける意味は?」

「…………」

「お前、これからずっと組織の関係者洗い出すのにいちいちその方法取るつもりか?」

「そんなことは……」

「だったらまずはテメエで女の口割らせれるようになりやがれ。諭そうが殴ろうが犯そうが俺は知ったこっちゃねえが、処分沙汰になるような真似だけはすんな。わかったか?」

「……………。」

マベは一歩下がると後頭部に手を当て、ハァとわかりやすく溜め息をついた。

「女とヤッてくる」

「………は?」

「だから。女と一発ヤッてくる」

「…いや、今さっき例の女と…」

「お前俺がどんだけ早漏に見えたンだよ?次の集合までまだ時間がある。お前もここで買えばいい。俺は違うとこに行くからよ」

「ち、ちょっと待ってください」

背を向けて歩き出そうとしたマベを慌てて引き止めた。

「………あンだよ」

振り返りもしないマベに隊員は意を決して言った。

「マベさんのやり方に納得できません」

「………………。」

「確かに人身売買は悪いことです。裁かれて然るべき悪の行いだと思います。ですが貴方のやり方はそれと同じじゃないですか?口を割らなかった女にあんな強引な真似して、私の前で暴言まで吐いて……」

「…………。」

「私達は奴等を取り締まる側です。もっと高潔であるべきだし、彼等にも更生の余地はあるのでは?なにも同じ泥にまみれる必要は―――、……?」

「………、…………。」

マベが肩を揺らし始め、隊員は言葉を切った。背中を向けたままぐっと俯いて肩を震わせる姿は不気味で、若い隊員はその異様さに立ち竦むしかなかった。

クッ、クックッと喉を鳴らすような低い笑い声。そして……

「……ッハッハッハッ!!アッハッハッハッ!!」

マベが狂ったように笑い出した。長身を屈め腹を押さえて馬鹿笑いするその姿に、隊員の背を冷や汗が伝う。

それに構わずマベが笑いながら振り向いた。

「『人身売買は悪いことです。裁かれて然るべき悪の行いだと思います。我々はもっと高潔であるべきだ』……なんだってェ??」

次の瞬間、隊員は胸ぐらを引っ掴まれ、強い力で壁に身体を叩きつけられた。マベが片手で隊員の襟を鷲掴みにし、壁に押し付けたのだ。

「……………!!」

爪先立ちでもがく隊員にマベがぐっと顔を近づけてきた。瞳の濃淡が分かりづらく白目の濁った両目は怒りで満ちているのに、口の端だけは歪ませるようにして歪に笑っている。

本部でもここに来るまでの道中でも見せなかった、”札付きの狂犬”の二つ名通りの、狂気じみた、獰猛な獣のような表情だった。

「教科書どおりの台詞だなあオイ?どこで習った?え?魔術学校か?それとも作家志望か?」

「……………っ。」

苦しさと恐怖と憤懣で言葉が出ない隊員に、マベは片目を細めて首を傾げた。

「言ってくれるじゃねえの…。入ってどれくらい経つっけお前?人身売買組織ィ相手にする任務に、なァァに御伽噺の騎士道精神みてえな御託並べてンだよ?えェ?」

ぎりぎりと首が締まる。マベが歯噛みするように口の端を吊り上げ醜く笑った。続けてマベの口から出た言葉に隊員は驚くしかなかった。

「……それで誰が喜ぶ?」

「…………!?」

「俺達が絵に描いたように清廉潔白に、誰が見ても百点満点くれるようなやり方で敵をとっ捕まえて、法の下で裁く連中に引き渡すまでそれはそれは甲斐甲斐しく”面倒見てやって”、真人間になるための説法説いて、それで誰が喜ぶのかって聞いてンだ。」

「ほ、褒められたいから言ったわけじゃ……!」

「知ってるよ。”お前がそうありたい”からだろ?」

マベが両手で隊員のコートの襟を掴み直しながら平然と言い放った。

「…………!!」

「残念だが俺の任務に”そういうの”はねえんだわ。……お前、地下牢に繋がれて日の光も浴びねえまま息絶えたガキみてえな年齢の女子供の干からびた死体は見たことあるか?攫われて連れて行かれた先で商品価値が無いと判断されて、俺達に見つかる前に”処分”された人間の数は知ってるか?一度に手足の指じゃ足りねえくれえの数を見たこともあンだがな…。…組織の連中のオモチャにされて身籠っちまって狂った女の叫びは聞いたことあるか?遊び半分でクソみてえな魔術で両手足焼かれて死にかけてる女の最期の頼みを、お前は聞いたことあるか?」

「………っ、………ぃっ……」

「……何泣いてんだテメエ……泣きてえのは死んでった人質と、その帰り待ち望んでた家族だろ?家族もいねえ人質は泣いてくれる奴もいねえんだよ。」

息苦しさに顔を真っ赤にしてぼろぼろと涙を零す若い隊員を前に、マベの表情がふっと曇った。

「……そういうことを息吸って吐くようにやってのける連中ばかり相手にしてたらな。お前みてえに気高くて、正義感が強くて真っ直ぐな甘ちゃんは、すぐイカれちまう。理想の自分と、目を覆いたくなる現実とのギャップに自分自身がどう立ち向かうべきか、明確な答えを探しまくった挙げ句神経すり減らして薬漬けになって除隊が関の山だ。……お前、覚悟が出来てねえなら部隊を去りな。俺に喰い殺されねえうちにだ。」

力を弱めたマベの手が離れた。隊員はどさりとその場に崩れ落ち、へたり込んだまま動けなかった。

「……あーあー。女買う時間なくなっちまったじゃねえか。これだから新人教育は苦手なんだよ…」

ぶつぶつ呟きながら立ち去ろうとするマベに、隊員は叫んだ。

「じゃあ、貴方は人質の仇を討つためにわざとあんなことを?そんなことしたって、死んでいった人達が救われるわけじゃないのに。ただ貴方の心が―――、」

マベが足を止めた。しばらくそのまま立ち尽くしていたが、ほんの少しだけ隊員のほうへ顔を向けた。

「死んだ奴は救えねえよ。生き残った奴が『ざまあみろあいつら』って笑って暮らせんなら、俺は札付きの狂犬で満足なんだよ。それが俺の、………。…とにかくお前、鍛え直しだ。さっさと本部へ戻れ。じゃーな。」

複雑な表情を見せる隊員にそれだけ言って、マベは出口に向かって歩いていった。

 

 

 

「あいつ、大丈夫だったか?」

娼館から出てきたマベに、待ち構えていたベテラン隊員が話しかけてきた。

「ま、今日ンところはな。……嫌な天気だぜ。」

降りしきる雨の中を歩き始めたマベの隣に隊員が並んだ。

「お前、脅しすぎだ。言葉の選び方をもう少し考えてやらないと、学校出たての奴には刺激が強すぎる」

「うるせえ。この程度でビビってたらどの道、無理だ」

「まあそうなんだけどさぁ…。お前の優しさは分かりづらいから……」

マベが怪訝そうにベテラン隊員を見つめた。

「誰が優しいって?」

「…いや優しいだろ」

「女とヤッてるとこ見せて反論してきた新人の胸ぐら掴んで御託並べて除隊迫る男がか?笑わせるぜ」

「まあ…お前はそう言うよなぁ……」

「あァ……?」

曖昧に言葉を濁す隊員にマベは首を傾げたが、すぐに興味が薄れ別の話題を切り出した。

二人の影は雨で薄くぼやけた視界の向こうへと消えていった。