19.心

ばたん、と荒々しく扉が閉まった。

どこからか吹く風に揺られた草木がさわさわと音を鳴らす。それはまるでそのひとつひとつが意思を持ち、あれが小鳥の望んだ侵入者だと噂話をしあっているようにも聞こえる。
鳥籠を思わせる白い骨組みのドームにはめ込まれた透明なガラスの天井から見える、澄んだ冬空のように煌めく星々。見渡す限りに咲き誇る色とりどりの鮮やかな薔薇。室内にもかかわらずどこからか吹いてくる暖かく心地よい風と、流れる水の音。
構造物のあるべき姿や自然の原理を全く無視した人工の庭園は一見美しいが、草木も花もあまりにも完璧に整えられていて、まるでここにあるもの全ての時が止まっているように見える。満開の薔薇はひとつの花弁を落とすことも無く、永久に満開のままここにあり続けている。

静かな足音が、周りの光景に目を留めることもなく、ある一点へと近づく。

血のように赤く艶やかな長い髪、光の粒を弾き返しそうな長い睫毛、折り重なって咲く花の模様を編んだレースのワンピース。誰が見ても美しいと表現するに違いない少女が、その華奢な身体を細い銀の杭で何度も何度も執拗に打ち付けられ、そこにただ座っていた。
風に揺られて彼女の髪が頬にかかる。死んだように眠るその胸が僅かに動くことだけが、彼女がまだそこに生きていることを示していた。

その傍らには磔の少女と同じ姿をした、影のない少女が座っている。
彼女は鈴を転がすような声で、しかしこの世の誰にも届きはしないくらいか細い声で、知らない歌を歌っていた。
磔の少女の頬にかかる髪をすくい上げるような仕草をするが、その細い指先は髪をすり抜け、触れることすら叶わない。少女は目を細めて寂しげに笑って、振り向きもせず足音の方へ話しかけた。

「こんばんは、ルト。初めましてなのかしら?」

カナリアはにこりと笑って振り返り、今度は首を傾げて、いかにも愛らしい少女のような仕草をしてみせる。
愛される術を知っている者の、淀みなく、抜かりなく、ある種の不自然ささえある仕草。そうと知らぬ者なら、或いはそうと知っている者でも、ひとたびその顔で、声で微笑まれれば、彼女のどんな望みでも二つ返事で叶えてしまうことだろう。
カナリアに話しかけられたゲラルトは、その姿を捉えても少しも動揺することなく、ぴくりとも表情を動かさなかった。

「約束通り、終わらせに来た。」
「あら。一言目がそれ?」

ゲラルトに、あの店の薄暗い明かりの中で会ったときのような隙は微塵もなかった。人間のものとは思えないほどに鋭く、冷たく、カナリアがここにいて呼吸することすら認めないような目。目的のためなら情けも容赦も必要なく、慣れ親しんだ相手であろうと躊躇いなく刃を向ける。ウライオスの隊長とは、ゲラルト・シェズムという人間の本質とは、こういうものだった。
カナリアは、まるでお気に入りの玩具が都合通りに動かなくなった時の子供のように唇を尖らせて俯き、あからさまに不機嫌そうにしてみせる。

「私がいけなかったのよ。人々が狂ってしまうのは知っていたのに、温かさに自惚れて。」

長い時を生きて来たなかで、人間の愚かさはよく理解していたつもりだった。カナリアは何度もその愚か者たちに裏切られ、いつしか共に歩み生きることをやめた。様々な場所を渡り歩き、人々を狂わせては嘲り笑い、そうやって暇つぶしをしながら生きることでカナリアは何とかこの世と繋がっていられた。美しい彼女にとって、それを自らの存在意義だと思っている彼女にとって、忘れられることは死を意味していた。人々に恐れられ疎まれることで、何とか誰かの記憶に残り、生き続けていた。
それなのに、華奢な手を広げると、もう何年も前に失った彼女の温もりがまだそこに残っている気がしてしまう。本当に愚かなのは誰なのか――、カナリアはぎゅっとその手を握りしめた。

「人間が欲深いだけだ。お前だけが悪かったわけでは無いと知っている。少なくとも、ミラも私もだ。」
「案外優しいこと言うのね。殺しに来たくせに。」

カナリアはうっとりと微笑みながらそう言った。
その表情がどんな感情からくるものなのか、人間と全く違う感性をもって生きる彼女のことはよくわからない。誰かが自分を殺しにくることに慣れきっていて笑う余裕があったのかもしれないし、単純に掛けられた言葉が嬉しくて笑ったのかもしれないが、カナリアはそういった感情もまるごと全てその美しい笑顔で包んで隠してしまう。

ゲラルトは眠ったまま動かないカナリアに近づき、彼女に刺さる細い銀の杭に触れる。まるで血液が流れ脈を打っているかのような奇妙な感覚があるそれに、ゲラルトは覚えがあった。
魔術とは全く違う力によって作り出される、この研究所をまるごと認識の外側に置き、何者にも害されないように守り続ける結界。それに触れた時にもまったく同じ感覚がするのだった。その杭は、カナリアが人間に貸し与えた力によって作り出されたものだった。
眠るカナリアの肉体は、この杭が創り出す結界の中で守られ、朽ちることも害されることも無くここに在り続けてきた。杭が引き抜かれなければ彼女を生かすことも殺すこともできないに違いないが、いつしかその存在は人々の記憶から抜け落ち、そのようなことを思い立つ人間も居なくなった。

「その銀の杭は、私を縛る私の結界。解放された私はもう自分を制御出来ないわ。」

あらゆる生物は体と精神があって始めて生きていると言えるらしい。裏を返せば、その両方が死んではじめて死んだと言えるのかもしれない。この研究所をまるごと隠す結界を維持するための苗床となったカナリアの身体も、忘れられてもなお人々の心を狂わせ続けるカナリアの精神も、生かしておけば必ずまた同じことが起きる。
皮肉にも自らの力を利用され封じられることになった姿を見て、ほんの僅かでも可哀想だという気が起こらないわけではないが、ゲラルトのやるべきことは何も変わらない。
ゲラルトの手が杭を握り、ぎゅ、と黒い皮の手袋とそれが擦れる音が鳴る。

「あなたのことも殺してしまうの。わかっているの?」
「理解している。」
「人間ごときがどうこうできる存在ではないのよ。」

ゲラルトがはじめてカナリアの目を見た。
冷たく鋭い眼光はそのままに、その瞳の奥には確かに、静かに燃える炎のような、恐ろしく愚直で狂気的な光が見えた。

「俺を誰だと思っている。不可能と思いながら来たと思うのか?」

カナリアは以前にもこういう目をした人間を一度だけ見たことがあった。
人間が信念を貫くために、己の身すら犠牲にしていくときの目。人間はそれを決意と呼ぶのだとカナリアは知っていた。知っていながら、人間と全く違う価値観で生きるカナリアには、なぜ己の欲だけに従って生きないのか、なぜ他の人のために自分の欲を曲げるのか、理解ができなかった。
遠い日に見たそれがふと目の前の人に重なって見えた時、カナリアは珍しく悲しそうに目を伏せた。

「うふふ。言ってくれるじゃない。あなたのそういうところ、本当に大好き。適当なところで私が負けてあげようかしら。」

カナリアがゆっくりと立ち上がる。
影のないその姿ではゲラルトに触れることは叶わないが、杭に手をかけた彼の手に、そっと自分の手を重ねた。
心のどこかでずっと待ち続けていた、ある種の願望。カナリアは目の前のこの人こそが、それを叶えられる唯一の可能性だと、初めて会った時から確信していた。

「ねえ、あなた、本当は何のために戦ってるの?」

ゲラルトはこの任務をもう他の誰にも引き継ぐつもりは無かった。自らの手で必ず終わらせる、それは彼自身の最後の意地であり、彼を闇から救い出し、再び闇へと落とした最愛の人への弔いのはずだった。
しかし、過去ばかり見ていたゲラルトの目には、今は以前とは違った景色が見えている。

「さあ。ただ、残されたこの世界には何も残らない訳では無いらしい。」

ゲラルトが杭を握り、ひとつ、またひとつと引き抜いていく。
カナリアに、体中がきしむようなとてつもない悪意が押し寄せる。

――苦しい、もう目を開けていられない。

「さよなら、ルト。これが最期ね。」

彼女は最期まで愛らしい笑顔で、そう呟いた。

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.
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ほんの些細なきっかけだった。

人間なんて愚かで、弱くて、判を押したように皆同じで、私の手に掛かれば誰だって容易く操れると思っていた。世界でいちばん美しい私の美貌に、声に、誰もが狂い、何だって思い通りにできると思っていた。

「少し傲慢なのではない?」

彼女が、たったひと言そう言い放った。
その言葉の意図するところが全く分からない私は、怒りの感情すらわかずに呆気にとられていた。

「あなたは変わった力を持ってるけれど、それ以外はいたって普通の女の子よ。そういうの抜きで仲良くしましょ?」

彼女はにこりと笑ってそう言った。
人から愛される術を知った者の、計算高い笑顔と言葉選び。私の術で狂わないのは、どうやら彼女が私と同じように、人の心を惑わせる力を持っているかららしい。決定的に違うのは、彼女のそれには少しの悪意も感じられないことだった。人に愛され、全てを愛す、聖女にも似た眩さを放つ存在だった。
私は、人間に疎まれ続けてきた私をいとも簡単に受け入れた彼女を、――そして私の力で思い通りにできない彼女を酷く気に入って、あっという間に好きになった。

「金色の瞳に美しい歌声。今日から貴女のことカナリアって呼ぶわね。」
「ねえ、ねえ、あなたの名前は?」
「私?カミラよ。」

カミラはこれまで出会ったどの人間よりも優しくて、私が知らないことを何でも知っていた。川辺に咲く花の名も、夜空に浮かぶ星の名も彼女が教えてくれた。
彼女が笑うと私も嬉しくなり、私が笑うと彼女が喜ぶ。それこそが彼女の言う”心”というものなのだと理解し始めた私は、人間を騙し嘲ることをすっかりやめ、彼女をもっと喜ばせるたい一心で、普通の女の子らしく暮らしてみることにした。

彼女は私の全てだとさえ思った。
でもカミラにとってはそうではなく、彼女は色んな人を愛し、そして愛されていた。世界の全てが自分の思い通りになると思っていた頃の私ならそんなことは許せなかったに違いないのに、私の好きなカミラが多くの人から愛されているのが嬉しく、誇らしかった。そんな気持ちになるのは生まれてから長い時の中で、初めてのことだった。

私と出会うずっと前から、カミラには一番の大切な人がいた。
どんな人かと尋ねると、彼女は少し照れくさそうに「穏やかで、優しい人」とだけ答えた。あれこれと無駄に飾らない言葉で語られたその人物は、きっと素敵な人なのだろうと私は確信した。
私が会いたいと言うと、カミラは一瞬の迷いもなく頷いてくれた。

彼は、カミラが言った通り、穏やかで優しげな青年だった。
ホフマンと名乗った彼もまた、不思議なことにカミラと同じように私を怖がったり厄介者扱いすることはなく、こんなに美しい女性と仲がいいなんてさすがカミラですね、と笑っていた。私が怖くないのかと尋ねると、彼は、カミラのお友達に悪い人はいませんからね、と冗談めかして答え、カミラはそれを聞いて楽しそうに笑っていた。
カミラがこんなに輝いた顔で笑うのを初めて見た私は、二人のことがとても羨ましくなった。そして、私はカミラとホフマンが幸せに生きてくれることを心から願った。

「研究所に結界を張りたい?ええ、できるわよ。」

カミラと一緒に行動しているうちに、私は研究所の人たちとも親しくなっていき、カミラが働いている研究所では、人間の怪我や病気を治すための研究をしていると教えてもらった。
私はその内容にはほとんど興味がなかったけれど、悪い人から大切な研究所を守るために結界を作って欲しいと頼まれたとき、カミラの大切なものが守れるならと、何の疑いもなくその求めに応じた。

私の力をもってしても、巨大な研究所を丸ごと認識の外側に置く結界を張るのは大変だった。でも、それでカミラの笑顔が見れるなら、それくらいの苦労は無いに等しかった。

思えば、この選択が間違っていた。
それを思い知ったのは、しばらく後のことだった。

いつもみたいにカミラに会いに行くと、普段穏やかな彼女がすごい剣幕で誰かと言い合いをしていた。

「カナリアのこと、何だと思っているの!?」
「でも、あれ以上の研究素体はもう見つからない。計画はもう進み始めているし……」
「わかったわ、もっといいものを用意すればいいんでしょう!」

その理由が自分にあることを知った私は、驚きのあまりびくりと肩がはねあがった。
彼女は優しかった。でも、彼女の周りの人間は必ずしもそうではないと、どうして気付けなかったのか。長い年月を生きてきて、人間がどれほど愚かな生き物か、嫌という程思い知らされていたというのに。
彼女が憤慨したあの話について、私が知っているということを彼女に知られてはいけない。彼女の笑顔がこれ以上曇らないように、私はいつものように彼女のために笑顔でいなければならない。
私は何も見なかったことにして、気付かれないようにその場を去った。

私はこのとき、進むことも戻ることもせずにその場に立ち止まる決断をしてしまった。結界を自らの意思で解いて逃げ出して、元のように人間を貶め嘲り笑って、誰からも嫌われる私に戻れば良かった。
でもそれがカミラとの永遠の別れを意味しているとわかっていた私には、どうしてもそうすることが出来なかった。思えば、私より遥かに賢い彼女が私にそう助言しなかったのも、同じように考えていたからなのかもしれない。

やがて、カミラは知らない男と結婚した。
私は何も知らされていなかった。
その美しい白いドレスがホフマンの仕立てたものだと言うことはひと目見ればわかったのに、私はそれを着たカミラを少しも素敵だとは思わなかった。私が見たかったのは、一番好きな人の隣でそれを着て、太陽みたいな眩い笑顔で皆に祝福される彼女の姿だった。

私はどうしてなのか、カミラに問うた。
彼女は私の両の目をしっかりと捉えていた。そこには揺るがない決意が見えた。

「あなたを救うためにはこれしかないのよ」

彼女は、たった一言そう告げて、私に背を向けて歩いて行った。
私の頭の中は色んな感情でぐちゃぐちゃになって、私はそんな救いは求めていないと声を上げることもできずに、呆然とその場に立ち尽くした。
ホフマンと幸せになる道を捨てた彼女に裏切られた気持ちだったが、その決意をさせた原因は他でもない私だったのだから、その私が彼女を責めることはできなかった。
彼女と私を繋ぐ糸が、呆気なく途切れてしまった。私が必死に繋ぎ止めようとしていたものは、こんなにも脆かったのか。

あんなに見たかったカミラの笑顔が、もう見られない。
私がどう振舞おうとこの結末を避けることはできなかった。

でも、私には変えられなくても、彼になら変えられる。
はっと顔を上げた私は、細かいことを考える間もなく夜空へと飛び立った。

.

私はホフマンに真実を伝えに行った。

私は、私の身などどうなっても良かった。私が研究素体として利用されようと、たとえ命を落とそうと、カミラが幸せに笑っていなければ、そんな世界で生きていく意味はなかった。
彼女があの嘘まみれの婚礼を本当は望んでいないこと、彼女をあの歪んだ決意の中から救い出してほしいこと、それができるのは私ではなく、彼だと言うことを伝えなければならなかった。

私は乱暴に店の扉を開いた。
店の中には電気のひとつもついていなくて、やけにしんと静まり返り、ひんやりした空気が漂っていた。

奥の部屋の扉を開いた時、私は目を見開いた。
そこには倒れたホフマンと、その傍らに彼の裁ち鋏と、大きな血溜まりがあった。
私はただ立ち尽くして、それをじっと見ていた。

彼がカミラの結婚を苦に命を絶ったことは私にでもわかった。でも、二人ともどうして何も言わずに一人で決めてしまうのか、私にはわからなかった。ただ一言、そうだと言ってくれたら、私がなんだって叶えてあげられたのに。

私は身勝手な二人を恨みながら、ふと思い立って、私も彼らがそうしたのと同じように、誰にも話さずにひとつだけ我儘を叶えていくことにした。

――ずっとずっと、
好きなお洋服を作りながら暮らせるように、
あなたのために特別な結界を残していくわ。

ここは何の苦しみからも守られた場所。
彼女はきっといつかここに辿り着く。
いつかまた、愛する人と巡り会えたとき、
あなたの時が再び動き出しますように。

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.

私は、虚しいほど美しい庭園で座っていた。
咲き誇る花々の色も、風に吹かれて漂う艶やかな匂いも、小鳥たちのさえずりも、もう何も私の心を動かしはしなかった。

白い服を着た人間たちが私を囲い、何か言うのもちっとも耳に入らない。
彼らが一斉に銀の杭を振りかぶるのも、もうどうでもよかった。

カミラ、ホフマン、ごめんなさい。
私が居なければ、二人はいつまでも笑っていられたのに。
やっぱり私は普通の女の子ではなかったから、人間ごっこはもうおしまいね。

今度は人間が私を嘲り笑っている。
私は抵抗することも無く、それを受け入れた。
鈍く心をつんざくような音が、美しい庭園の中に響いた。

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いつものあの歌が聞こえる。
今日は、いつもよりもっと近くで。