17.点を繋いで

空と山の境界線に濁った赤が残り、ひとつまたひとつと街に灯りが灯る頃。

ゲラルトは高台へと繋がる坂道をのぼっていた。誰かとすれ違うことはなく、1つ足音がする以外にはたまに吹く風が木の葉を揺らす音がする程度だった。そういう場所を選んで歩いているから当然のことではあるが、どこを見つめるわけでもない、どこか浮かないその表情を見れば、仮に知人とすれ違ったところで話しかけられはしなかっただろう。
魔術を使えばどこへでも一瞬の間もなく行けるゲラルトが珍しくこうして歩いて出ているわけだが、そこにこれといって挙げるほどの特別な理由があるわけではなかった。強いて言うなら、何となく落ち着かないからそうしているというだけだった。

姿の見えないものを相手に戦うのは、雲を掴むような現実味のない話だ。少なくともこの件に関わり出した当初はそう思っていた。糸口を見つけ出すのに無駄に血を流し、それでも何の収穫も得られないこともしばしばあって、目的に近づいているのかどうかさえ確信が持てないような時が長く続いた。
それが何の因果か、偶然招き入れられたあの店の存在で状況は一変した。しかし、積み上がっていく情報は肝心なところで繋がりそうで繋がらず、ここ最近は考え事をしてどうも上の空になってしまう。普段詮索し合わない隊員たちにさえ、どうしたのかと問いかけられることが増え、隊長としての威厳も責任もあったものではない。
正しく言えば、もうほとんど答えは出ているものの一点だけ解消できない疑問があり、そのたった一点が全体の輪郭を曖昧に曇らせている。

後方から早足で追いかけてくる音が聞こえてくる。
ゲラルトはそれに気付いていたが、振り返るわけでも無くただ真っ直ぐに坂の頂上を目指して歩き続けていた。追いかけてきた人物がたまらず声を掛ける。

「歩くの早くて追いつけないじゃん」

聞きなれた声がして、ゲラルトはようやくちらりと後ろを見た。黒い髪に黒い服を着た男とも女とも言い難い姿のその人は、視線が合うなり顔を顰め、言葉を発する代わりにはっきりと一度舌打ちをした。見慣れない外見ではあったが、ゲラルトにはその人がミラであるとすぐに分かった。
ここは偶然に知り合い同士がすれ違うような所ではないし、わざわざこんな所まで追いかけてくる知人もそう多くはない。その中でも見覚えのない姿形で話し掛けてくるのは、ミラくらいしか思い当たらなかった。

ミラとゲラルトはあれ以来、店への置き書きやホフマンへの伝言でやりとりをするだけで、顔を合わせていなかった。それと言った理由が告げられたことはないが、ゲラルトのほうから距離を置いていたらしいことは、その背を追いかけるミラの不満げな表情からどことなく察せられる。

「何の用だ。」
「は?会いに来たわけじゃないよ。話をしにきただけ。」

それは同義なのでは、とゲラルトは思ったが口には出さなかった。距離を置いていたのは、ミラが近いうちに研究所の中央部へ行くと知っている以上、その身を必要以上に心配し干渉してしまうのを避けてのことだった。今ここにミラがいるのは生きて記憶を持ったまま帰ってきたからだとわかっているのに、もちろん何を話しに来たのかもわかっているのに、開口一番冷たくあしらってしまう自分もまた素直では無いのだから、ミラの言葉を指摘することは出来なかった。

先程より少しゆっくり歩くゲラルトの足音と、それでも早足気味についていくミラの足音がふと止まった。

高台からは街が一望できた。
空はいつの間にかすっかり暗くなり、落ちた陽の名残も無くなっていた。街の光がキラキラと点になって揺らめく景色は美しかったが、2人はそうと感じるわけでもなく、数十分ほど前よりいくらか冷えた空気の中、それを何の感動もなくただ眺めていた。
ミラが数歩前へ出て、ふと振り返った。2人がこうしてきちんと向き合って話をすることはそう多くはない。街灯が逆光になり、ミラがどんな表情をしているかはよく見えなかったが、恐らく想像通りだろうとゲラルトは思った。

「私、カナリアが何もかも悪くて、あれを消せば全部終わると思ってた。」
「ミラ、順を追って話せ。」
「ああ、うん、そうだね。」

ミラはあの美しく寂しい鳥籠の中で見たこと、感じことをありのままに話した。時に感情的で纏まりのないところもあったが、ゲラルトは一言も口を挟まずに黙ってそれを聞いていた。
全て話し終わったところでミラが大きく溜息を吐き、街を見下ろす高台はまたしんと静まり返った。

一体、誰が悪かったというのか。
透明な水の中にたった一滴落ちた黒いインクは、誰もがそうと気付かないうちにあっという間に拡がって、いつの間にか一面を黒く染めた。はじめの一滴を落としたのが誰だったのかもわからないが、きっとそれはありふれた些細な欲から出たものに違いない。欲は欲を産み、やがて歯止めが利かなくなり、目的を逸脱し暴走する。
誰かを咎めるとすれば、欲を制御出来ない人間そのものなのかもしれないが、それは大切なものを失ったこの二人にとって納得のいく答えではなかった。

「私らのしてることって、なんなんだろって思っちゃって。」
「この街のどこかに存在するあの施設で、今も多くの犠牲が払われている。それを止めるのが私の仕事だ。私のすべきことは変わらない。」
「…そうだね。私にはカナリアとの約束もあるし。」

ミラが一度だけ頷いた。暗闇と逆光に目が慣れてきたからか、今度は安堵の表情がはっきり見て取れた。
ミラはその言葉が欲しくて、迷いを断ち切りにわざわざやってきたのだろうとゲラルトは確信した。欲しい言葉をそのまま言わされたことに関して多少思うところはありそうだが、それが本心でもあったので、不満を顕にすること無くゲラルトは続けた。

「問題はどうやってあの場所に狙い通りに入り込むかだ」
「ホフマンの店は認識してないと内側に入れない。研究所の仕組みと同じなんだよ。」

ゲラルトがはっとミラの顔を見た。

「カナリアは自力で鳥籠の外へは出られない。…ホフマンの店は鳥籠と直接繋がってるんじゃない?」

ミラの言う通りだった。
ホフマンの店は決して誰にも見つからない。その理由は、人々の認識が歪められ、そこにありながら誰にも気付かれないからだ。店主が望んだ人だけが入ることを許され、そして店主は無自覚に入った人の記憶を消し去る。
この国で使われる魔術の類ではない、人智を超えた力で守られているあの店は、確かに研究所の仕組みそのものだった。言われてみればそうとしか考えられないのに、なぜ今の今まで気が付かなかったのかと、ゲラルトは自分を情けないとさえ思った。厳重に隠されたカナリアの居場所へどう入り込むかとばかり考えていたのに、実は随分前からその中に入っていて、そこでくだらない話をして皆でコーヒーを飲んだり、時には他の誰も訪れないことを良いことにうたた寝をしたりしていたのだから。

ゲラルトにはひとつ思い当ることがあった。新月の夜にあの店にカナリアが現れる時、決まってどこからか、そこに無いはずの扉の開く音が聞こえてくる。
ミラの推測が正しいとすれば、それが鳥籠へと続く扉に違いない。

「新月の夜、行き来するための扉が開く。二人が入れ替わる時、時間稼ぎができないか?」
「それなら任せて。とっておきの方法がある。」

ミラがいつも通りの、悪党よりも悪党らしい顔でにやりと笑った。
その方法とやらが何なのかは、聞かないのが暗黙のルールだった。互いの目的を達成することが全てで、それに付随する事情には関心を持たない、干渉し合わないというのが2人のやり方だからだ。
しかし、ゲラルトにはそれこそが導き出そうとしている答えの繋がらない一点を繋ぐもののような気がして、少し悩んだ後で口を開いた。

「何故カナリアはあの店に辿り着いて、ホフマンに取り憑いたんだ?」
「へー、あんたがそれを聞きたがるとはね。」

そこにゲラルトの単純な興味がまったく含まれていなかったかと言われれば、そうではない。ミラは少し苦笑いをしながら首を傾けてみせたが、そこには嫌がるような素振りはなく、単に意外だという感情が見てとれた。
以前のミラならわざとらしく嫌な顔をしてから無視するか、知りたいならいくら払うかと取引を持ちかけてきたに違いない。どういう心情の変化なのかは二人にしかわからないが、ミラとゲラルトが目的達成に直結しないことでも話し合える間柄になったからなのかもしれない。

「最初にホフマンにあった時からね。どこから話そうかな。長くなるから、場所変えない?」

返事を聞く前にミラが不意に手を伸ばし、ゲラルトの腕を掴んだ。ミラは場所を変えたいときに、こうやって無言で転移魔法を催促することがあった。
冷えた指先が手首に触れる感覚にゲラルトは少し目を細める。空気はすっかり冷え、ミラの言う通り、この場所にこれ以上長居する理由も特になかった。普段ならホフマンの店に行くが、今日ばかりはそういうわけにもいかない。ゲラルトは黙ったまま少し考えて、あまり気乗りはしないが行き先を決めた。

その数瞬後には、二人の影は消えていた。
街を見下ろす高台は元の通り物音ひとつしなくなり、その代わりに今にも零れ落ちそうなほどの街の灯りがきらきらと煌めいていた。