「ねえルト」
「……」
「ねーねー」
「……」
「ねえってば」
「……」
ゲラルトは、目の前をちらちらと動き回っているそれを無視し、手元の本に視線を落としたままぴくりとも動かない。
これほどの妨害を受ければ本を読むどころではない。それでも相手にしたら負けと言わんばかりに、その存在を無理やり意識の外に追いやって、知らないふりを決め込んでいた。
エルは一度動きを止め、その冷たい表情を見てむくれた顔をしたかと思うと、今度は何か思いついたような顔をしてにやりと笑った。その仕草や表情は、幼い子供とまるで同じだ。
突然、椅子の背もたれの方からするりとエルの腕が伸び、ゲラルトの持っていた本をパタリと閉じた。
無視を決め込むために使われていた道具が封じられ、ゲラルトはようやく少し顔を上げた。その耳元に寄ったエルが何か聞こえない程小さな声で呟く。上手く聞き取れなかったゲラルトが思わずそちらへ顔を少し動かしたその隙、エルは彼の頬に唇を押し当てる。
「っ……!?気色悪いからやめろと言っただろ!」
「だって相手してくれないんだもん!」
ゲラルトが思わず頬を袖で拭うのを見て、エルは楽しそうに笑い、そして伸ばした腕でぎゅうとその体を抱きしめた。
「中身が女か知らないが、外見はホフマンなんだからな?」
「仕方ないでしょ、今はこれしかないんだから。ルトだって、本当の姿を見たら、すぐ好きになってくれるんだから!」
「いや、たとえ絶世の美女だろうと、お前を好いたりしないという確固たる自信がある。」
「ひどい!そんな風に言わなくていいでしょ!」
ゲラルトは心底呆れた顔で、深い深いため息をついた。
新月の夜にここに来れば、またこれと出くわすことはわかっていた。わかっていながら、目的のためならと思ってしぶしぶ出向いたわけだが、大した情報は得られないどころか、エルの暇つぶしと構って攻撃に付き合わされているのだ。この数時間で唯一わかったのは、どうやらこれを相手にまともな会話を期待すること自体が間違っているということだった。
自分は何をしているんだ、という虚無感に襲われそうになるのを何とか抑えながら、ゲラルトはただ時が過ぎるのを待っていた。
「退屈なの。ここに居る時くらい楽しくしてよ。」
「退屈?なんでも思い通りでさぞかし楽しいだろう」
ゲラルトの言葉に抗議するかのように、首にしがみつくその両腕によりいっそう力が加わった。その力は加減を知らず、ゲラルトが一瞬顔を歪めた。
「ルトは全然わかってない!」
「何がだ。おい、いい加減離れろ」
「もう違うの。あの鳥籠は楽園なんかじゃない。」
あっさりと腕を離したエルは、ゲラルトの座る椅子の背もたれに手を乗せて、くぐもった声で答えた。
「みんな、私のことが好きなのに、もう私のこと見てくれない。」
「研究ばかりに目がいって、か?」
「……うん。」
エルはゆっくりとゲラルトの座る前へと移動し、ぴたと動きを止めた。俯いたその顔、怪しく光る金色の目がゲラルトの両目を捉えた。
子供のような振る舞いの合間に不意に見える不気味な一面は、どうやら本人が意図してやっているわけではないらしい。こういう瞬間、ゲラルトはこのエルという存在が人間ではなく化け物であると再認識する。
「奴らはお前の複製を作りたいんだろう?」
「結構知ってるんだね。そうだよ。」
「それは、進んでいるのか?」
「出来損ないしか作れてないし、多分無理だと思うけど。」
静かにその目を閉じ、ふと短くため息をついたエルは、椅子に座るゲラルトに跨るように、太ももの上に座った。
「退屈すぎて死んだ方がマシ。ねえ、もっと楽しくして。あのね、昔みたいに……」
「おい待て。もう一度言うが、その体で近付かれる私の気持ちを考えてみろ。」
「知らない。中身はホフマンじゃないもん。」
ぐいと片手で押し返され、むくれたような顔をして抗議したエルは、次の瞬間にはひどくつまらなさそうな顔でゲラルトをじっと見つめた。ころころと表情を変える目の前の化け物が一体何を考えているのか、ゲラルトには全く検討がつかなかった。
「私が自分のこと話したんだから、ルトもいい加減にその仮面やめたらぁ?」
「お前が勝手に話したんだろう」
「自分の殻に閉じこもっちゃってさ。」
「何のことだ。」
「本当はわかってるくせに。そうだ、その理性ってやつ、壊してあげる。」
エルがその両手でゲラルトの頬に触れる。だんだんとエルの扱いに慣れてきたゲラルトが、大して驚く様子もなくつまらなさそうな顔をしているのを見て、何もする気がないとでも思っているのと言わんばかりに、エルがにやりと悪戯っぽく笑ってみせる。
エルが少し首を傾げるようにして、ぐいと近づく。
2人の唇が触れるか触れないかのところで、エルは後頭部の髪の毛を引っ掴まれ、呆気なく引き離された。
「エル、いい加減にしろ。俺がいつまでも黙ってやられっぱなしだと思うな。」
ゲラルトは先程までの関心のない顔ではなく、明らかに不機嫌な顔をしていた。
しばらく驚いたような、きょとんとした顔をしていたエルが、次第ににやりと笑い、そして肩を震わせて大袈裟に笑いだした。
「っふふ、うふふ。あはは!ああ、おかしい!私の勝ち!」
「何がだ?」
「あっ、気付いてないんだ。うふふ、ルトのそういう鈍感なとこ、好きだよ。」
わけがわからず困惑するゲラルトの様子を見て、エルがまた笑った。
「ほら、勝ったんだから、頭撫でて。」
「よくわからんな」
「でもしてくれるとこが優しいよね。言われたらなんでもするの?」
「そういうわけじゃない。」
「ねえ、じゃあ――」
「しない。」
「まだなんにも言ってないのに!」
「どうせろくな要求をしないだろ……それより、お前の言う鳥籠というのは、」
二人はふと窓の外へ視線を向けて、どこからか聞こえてくる歌に耳を傾けた。
今日は随分と時間がかかった。それはこの歌声の主が小鳥を見つけられなかったからなのか、見つけた上で泳がせていたからなのかは知る由もなかった。
「……見つかったようだな。」
「ほんとだ。あーあ、いいとこだったのに。」
「やっと静かになる」
「またそんなこと言う……。じゃあね、ルト。」
操り人形の糸が切れたようにがくりと力が抜け、ゲラルトは思わずその身体を両腕で抱きとめた。
「おやすみ、エル。」
そこにはもう居ない”彼女”に別れの挨拶をしたあと、ゲラルトはその身体をそっと抱き上げソファへ寝かせた。
明くる朝に現れる”彼”のために。