今夜は月の明かりがなく、外の光を入れないこの店の中がよりいっそう暗く感じられる。
ゲラルトがふと見上げると、天井に吊るされた頼りないランプの光がゆらゆらと不規則に揺れ動いていた。
世の中に溢れる魔というものと、月の満ち欠けには何らかの関わりがあるらしい。
あらゆるものを魔術の力に頼るこの国では、月の出ない夜には様々な影響を受ける。魔物と呼ばれる異形が現れやすくなったり、魔術師が使える力に影響が出たり、稀に水やエネルギーの供給に支障が出る場合もある。
この国に住む者は、新月の夜はそういうものだと思って暮らしていて、それを今更おかしいと感じることも無い。
こういう日、ゲラルトは決まって不思議な感覚に襲われる。遠く遠く、どこからかはわからないが、誰かの歌声が聞こえる気がするからだ。
聞き覚えがないのになぜか懐かしいその声は、誰の耳にでも届くわけでは無いらしい。今まで何度かそれとなく周りに同意を求めたが、同じ感覚を経験したことのある人はほとんど見つからなかった。国内有数の魔術師が集まるウライオスの隊員ですらそうなのだから、それが一般的な感覚ではないというのは間違いなかった。
そんなことを考えながらぼんやりと明かりを見つめていると、店のどこからか古びた扉の開くような音がした。不思議に思ったゲラルトが音のした方に目をやると、そこにはいつもと変わらない店の風景が広がっていた。
じっと目を向けた方を見つめたままでいたゲラルトが視線を戻すと、すぐ傍のソファでもぞもぞと動く音がして、先程まで寝ていたホフマンが体を起こしていた。その横顔がランプのあかりに照らされ、彼の紫色の瞳が金色に光ったような気がした。
「起きたか?珍しく寝ていたみたいだが」
「うん、今起きた。」
ゲラルトは不意に返されたその言葉に違和感を覚え、ホフマンをじっと見た。
ホフマンがゆるりと顔を動かし、2人の視線がぴたと合う。ゲラルトは、今度は確かにその両目が金色に輝くのを見た。その顔や姿は確かにホフマンそのものだが、浮かべる表情、声色、仕草、そのひとつひとつが明らかに彼のものとは違っていた。
「お前は……」
「ああ、もう気づいたの?」
ゲラルトが口にした問とも言えない問に、彼は、彼なら絶対に見せないような上機嫌な笑みで答えた。
「こんばんは、ゲラルト。この目を通して見ていたよ。ずっと会いたいと思ってた。」
ホフマンの中にいるその誰かが誰なのか、ゲラルトにはすぐ理解できた。
ゲラルトは座ったまま姿勢は変えず、その指先だけをほんの僅かに動かした。さきほどまでぼんやりとした明かりと彼の寝息だけが支配していた静かすぎるほどに静かなこの空間に、緊張感のある空気が流れた。
「……小鳥、か。」
「うん、そう。でもその呼び方は嫌いだから、エルって呼んで。」
「エル?」
「Elle、彼女。名無しってこと。あなたは呼びにくいから今からルトね。」
「何でもいいが……なぜ突然出てきた?」
その仕草や言葉遣いからして、小鳥と呼ばれる存在は少し幼さの残る女性であるということがわかる。ゲラルトは一つ一つ細かい挙動まで逃すまいと、半ば睨み付けるような視線でそれを見ていた。
エルと自称したそれは、ゲラルトとは対照的に上機嫌に笑ってみせた。
「今日は新月でしょ?」
「そういえばあの日も新月だった。」
「中身だけ移動できるの。体はいつものところにいるんだけどね。」
「成程。今ここでお前を斬っても仕方がないということか。」
エルは心底つまらなさそうな顔をしてゲラルトを見つめた。それからしばらく考え込むような仕草をした後、ふと思いついたように顔を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
エルがゲラルトへと歩み寄り、目の前に立つ。ゲラルトの手が思わず刀へと伸びるのを見て、エルはかくりと首を傾げた。
「そんなに危険に見える? 大丈夫、中身だけじゃ大したことは出来ない。そんなことより、もっと楽しいことしない?」
エルはゲラルトの座っている両足の間に立ち、身を屈めてみせた。
ゲラルトの耳から顎へと片手を滑らせ満足気に微笑んだあと、その両手で彼の頬に触れ額同士をこつんとくっ付ける。エルの吐息が鼻先を掠め、ゲラルトはぐっと眉をひそめて不快感を顕にした。
「やめろ、気色悪い」
「大丈夫、すぐにそう思わなくなるから」
エルはくっつけた額をはなし、両手で頬に触れたまま、ゲラルトの青い瞳をのぞき込んだ。かく、と首をかしげて何か考えた後、またじーっと瞳を覗きこんで、目の奥の何かを確かめるように凝視した。
「あれ?おかしいなあ。」
「お前の存在以上におかしいものがあるか?」
「普通の人ならすぐ操れるのに、ルトは駄目なの?うーん。この体じゃ駄目なのかな。」
エルは思い通りに動かない玩具を虐げるように、ゲラルトの頬を包む両手をむにむにと動かした。それまで黙ってされるがままになっていたゲラルトは、不快そうに目を細め、その両手を掴んで強引に引き離す。
「本来の力が使えないのか?それは何よりだ。」
「変なの。でも、うふふ、気に入っちゃった。」
ゲラルトは呆気に取られ、次の言葉が見つけられなかった。
小鳥、と呼ばれる信仰対象。この国を揺るがしかねない危険因子であり最大の機密事項であるそれは、一体どれほど強大で恐ろしい存在だろうと想像していたが、目の前で笑ってみせる姿はまるで人畜無害で無邪気な子供のようだった。人の意思を思いのままに操れる力があるというのなら関わった研究員たちが狂っていったのにも納得がいかないではないが、こんなものに自分は振り回されているのかと思うと、少し馬鹿らしくなってしまう。
そのまましばらく動かなかったゲラルトが、思い出したかのように問いかけた。
「お前はなぜここにいるんだ?」
「何でって、つまらないから。鳥籠の中から出してもらえないんだもん。」
「鳥籠?いや、そうじゃない。どうして”ここ”なんだ。」
「……さあ。そんなの気まぐれだよ。」
エルはふいと顔を背け、外へと繋がる扉を見つめたまま暫く押し黙っていた。その瞳がどこか悲しげにぼんやりと揺れた気がして、ゲラルトは魅入られたように、じっとその様子を見つめていた。
「以前、ここで彼が死んでるのを見つけたんだ。……ほんと馬鹿だよね。それで、退屈しのぎにはなるかなって思って。体がないから器として使ってるだけ。」
問いかけに対するエルの答えには微妙に筋の通らない部分があったが、言い終わると同時に急に黙り込んだのを見て、同様にゲラルトも黙り込んだ。
いつもより暗い室内に漂う空気が、よりいっそうずしりと重たくなったように沈黙が続く。
「お前……、何で泣いてるんだ?」
その瞳がゆらゆらと滲むのを確かに見たゲラルトは問い、振り返ったエルの目からは、つうと一筋、涙が零れた。
その感情がどこから来るものなのか、ゲラルトには全く検討がつかず、眉をひそめ困惑した顔でエルを見つめた。
その雫は床に落ちる前に自身の手で拭いとられた。
「あれに気付かれたからそろそろ帰らなきゃ。やだなぁ、あの歌にだけは絶対に逆らえないの。」
「お前には聞こえるのか?」
「もちろん。ルトは聞こえる人なの?人間なのにすごいね。ますます気に入っちゃった。」
エルは大きな欠伸をひとつして、ゲラルトの腹部に顔を埋めるようにしてぐったりと座り込んだ。
「ああ、眠い。」
「……エル?」
「……」
ゲラルトの呼び掛けに言葉が返ってくることはなく、その後に続くのは穏やかな寝息だけだった。
「やはりここに居たか。しかしまさか、」
ホフマン自身にとりついているとは想像しなかった。そして、新月の夜には決して姿を現さないミラも、このことにはまだ気づいていないのだろう。
思わぬ形で小鳥と呼ばれるものとの接触に成功したゲラルトは、ようやくぞわりとした感覚に包まれ、今起きた現象の恐ろしさを実感していた。
自分の腹のあたりですやすやと寝息をたてる”ホフマン”が、またいつもの声色で、いつもの仕草でおはようと目を覚ますのをこの目で見なければ、きっとこのモヤモヤとした気持ちが晴れることは無いだろう。
早く朝が来ればいい。
いつものように何の代わり映えもしない朝が来るのを、これほど待ち望んだことはない。