赤い髪の少女(6年ほど前)

靴底が硬い床を蹴る、忙しない音。
細い通路を右へ左へと曲がり、階段を数段飛ばしで駆け上がり、目まぐるしく変わる周囲の景色に気を遣ることもなく、ひたすら駆け抜ける。

赤い短髪を揺らして走るその人の後ろには、物騒なものを手に抱えた男達が何人もついてきていた。
ついてきている、というと語弊がある。その人と彼らとはまったくの初対面な上に、決して好ましい関係を築いている間柄ではないからだ。

正しく表現しなおすなら、こうだ。
“彼女は追われている”。

この建物はただただ無意味に広くて、構造もぐちゃぐちゃだ。あらかじめ設計図を入手し、入口や出口、部屋の配置、通れそうなところ、あらゆる情報を把握してからお邪魔しに来た彼女には、その迷路のような道も、さして煩わしいと思うほどのものではない。
むしろこの状況下では、その複雑な構造がかえって彼女に有利に働いている。どうやら後ろから追ってくる番犬たちより彼女の方がよほどこの中のことを知っているらしく、複雑に角を曲がって走るごとに追ってくる人数はひとりふたりと減っていった。

あと、少し。
もう少し耐えれば出られる。

時折、呼吸に混ざってひゅう、と高い音が混じる。
胸ははち切れんばかりに脈打ち、そろそろ限界が近いことを告げていた。彼女は体力にはそこそこ自信があったが、こう走り続けだとさすがに厳しい。
それに、もうひとつ、別の問題を抱えていた。

右の腹部に鈍い痛みが走る。
この状況になったのには訳がある。それは、ほんの数分前の話だ。

彼女は、この建物内の端の方に位置する資料室にいた。
この部屋はもはや要を為しているとは思えない物が置き去りにされているだけで、目新しい情報が落ちているわけでも無く、彼女の興味関心を引くものは無かった。
たったひとつ、そこに設計図にない扉がぽつりと存在していることを除いては。

その扉の先にあるものは見えはしないが、ここまでして隠す必要のあるものがしまい込まれていることは容易に想像ができる。とはいえ、この部屋自体がこれほど埃っぽく空気が滞留した感じなのだから、扉の先に誰かが居るとは考えにくい。

彼女は、軽い気持ちで扉に手をかけた。
その時。

しんとした空気を一瞬にして打ち破るほどの大きな音がした。
予想の範疇になかった展開に反応できるはずもなく、彼女の身体は投げ出され、後ろに倒れこんだ。驚きで暫く頭が真っ白になったが、脇腹のあたりにズキリと痛みが走ったことで、彼女は冷静さを取り戻す。その場所をぐっと押さえつけると湿っぽい感覚がして、僅かに出血しているようだった。

代償は怪我だけではない。大きな音に気付いた人が向ってくる足音が聞こえてきた。

手をかけた瞬間に吹き飛んだ扉。ロックを解除せずに開けようとすると起動する爆破装置でもつけられていたのだろう。だとすると、あの扉の先はますます怪しく、そこまでして守られるべきものがあったのは間違いない。
この状況であの部屋までもう一度足を運ぶのはまず無理なことだろう。惜しいことをしたと悔やむ気持ちが沸き起こるばかりで、何だか苛立ちが募り、気分が悪かった。

状況が悪いのは明らかだ。今は起きてしまったことをどうこう考えるより、逃げ切ることが最優先なのは間違いない。見つかって追われる展開もある程度は想定していたから、何の道も用意していないわけではない。

「不審者はどこへ行った?」
「あの角を曲がったところで見失った」
「近くにいるはずだ、探せ」

彼女は狭い通風孔の中、きゅっと身を縮めて、彼らが立ち去るのを待っていた。男性にはとても入れるような隙間ではない。彼女の後姿を追っていた誰しもが、まさかそれが女であるとは思っていないのだから、こんな狭いところに入り込んでいるとは思わないだろう。

「(向こうに通り抜けたら別の通路に出られる。その辺りなら大丈夫だろ…。)」

音を立てないように、もぞもぞと狭い通風孔の中を移動していく。
が、彼女はひとつ考慮し損ねていた点があった。ある一点を通った時、ぐらりと床が傾き、その身体が広い空間へと投げ出される。

どさ、と言う鈍い音がした。

「…あっれえ?太ったかな。まさか落ちるとは…」

通風孔の蓋は思ったよりも脆く、人一人の重みに耐えられず、呆気なくその役目を終えた。
つまり彼女は天井から床まで無防備に放り出されたことになるが、その割には痛みもなく、その代わりまだ宙に浮いているような何だか変な感覚がしている。

身体を何かに支えられている感覚。
とく、とく、と脈打つ音の聞こえるそれは、くぐもった声を発した。

「……いや、十分細い。もっと太ってもいいくらいだ、お嬢ちゃん。」

声のするほう、彼女の顔のやや上方。
恐る恐るそちらに顔を向けると、そこには灰の髪に群青色の目をした男の顔があったが、頭にバンダナを巻き、口元を隠すマスクをつけたその顔に、彼女は全く見覚えがなかった。
彼女は全く知らない男の腕のなかにすっぽりと収まって、抱きかかえられていたのだ。

「……お、………… っ………!!」

ばちん、と音が響く。
反射的にその男の頬を思い切り叩いていた。

「おいおい!抱きとめてやったのにその扱いはないだろう!?逆に感謝されてもいいくらいだ!」
「何なんだよあんた、はなせ!」

ばたばたと暴れてみるが、その男は彼女を抱えたまま放そうとしない。
歳は40代くらいだろうか。大人ひとり軽々と持ち上げる両腕、胸元、首筋に至るまで完璧に鍛え上げられたその身体から、この男が並の人間ではないことが伺えた。明らかに研究員とは違う彼女に敵意を向けないところから察するに、どうもこの中の人ではないらしい。
それにしても、突然現れたのに平然としているのは何故なのだろう――、彼女がそんなことをふと考えていると、通路の先から足音が迫ってきた。

「まずい、気付かれた。逃げるぞ。」
「話を聞け!はなせ、はなせってば!!」
「その怪我では捕まるだけだ、大人しくしていなさい」

その男は話を聞く様子もなく、人ひとり抱えているとは思えない速さで走り始めた。
この男の発した「気付かれた」「捕まる」という言葉から、どうやらこの人もここにお邪魔しに来た人らしいことだけは間違いない。見つかったのが同業者と思しき人物だったのは不幸中の幸いだろう。

どう転ぶかはわからないが、他に選択肢はない。
ひとりで逃げ切ることが難しいと判断した彼女は、この最悪の状況を知らない男に託すことに決めた。

二人は小さな小さな部屋に息を潜めていた。
きっとここも忘れ去られた小部屋なのだろう。

「…あんた、何者だ。」

彼女は静かに、抱いていた疑問を口にした。
男はその質問が発せられることを当然ながら予測していた風だった。

「ああ、通りすがりのオニーサンだ。」
「そういうのうぜーんだよ、オッサン…」
「お、オッサンではない!そもそもお嬢ちゃんもここで何をしてたんだ?まさか遊びに来たわけじゃないだろう?」

群青の目が、しっかりと彼女の両目を捉えていた。
大人が子供を諭すような目。大人はいつもこうやって、自分の都合のままに子供を制御しようとする。彼女の心は急に苛立って、声を荒げた。

「ッ… 別に、大したことしてないし!」
「おっ…と、悪い子にはお仕置きだ」
「はぁ?何言っ、 んっ!?」

大きな掌が、彼女の口を覆った。
刃がたたないというのは正にこういうことを言うのだろう、いくらその手を剥がそうともがいても男は微動だにしなかった。力任せに押さえつけているというわけでもないのに、不思議なくらいにびくともしない。それがかえって恐ろしく、この男がやはり只者ではないことを物語っていた。
思い切りその手を引き剥がそうと両手に力を込めた時、脇腹に痛みが走り、彼女の体はびくんと大きく跳ねた。

「お嬢ちゃん、大きな声を出すのはやめてくれ…、な?」
「……あまり私に干渉しないでくれない。」
「傷が痛むのか。見せてみなさい。」

男は彼女が咄嗟に抑えた右の脇腹を覗き込み、血が滲んでいるのを確認するやいなや、眉間に皺を寄せた。目元しか見えない状態でも、その穏やかな目からは、どこの誰かもわからない人間を心配をしているのがハッキリと見て取れた。
決して人を信用せず、どう利用するかということしか考えていない彼女には、それはとんでもなく愚かで馬鹿げたことに思えたが、同時にどくんと胸のあたりに変な感覚がした。それを誤魔化すようにふいと視線を全く別の方へと動かして、彼女は素っ気ない態度をとる。

「………やだ。」
「何で!?」
「あーわかった。オッサン、私のカラダ見たいんだ?」

わざとらしく両腕で胸元を隠してみせるのを、男は心底興味が無さそうな目で見ていた。

「いやあ……ぺったんこは別に……」
「殺すぞ。ぺったんこじゃねーわ」

馬鹿馬鹿しいやり取りに半ば自暴自棄になり、服をまくり上げて傷を見せると、男はどこからから道具を取り出し手際よく傷を塞いでいった。どうやらこの男は魔術を使わないらしい。だとすればどこの組織の諜報員だろうかと考えている間、彼女はふとある違和感に気付く。
人の少ない通路へと通気孔を使って移動したのに、偶然その下に同業者らしき人物が立っていたりするものだろうか。彼女の疑問はすぐにそれらしい答えへとたどり着く。

「あんた、私がいるの知ってたんだろ?」
「ああ。お嬢ちゃんがあの扉を開けてくれたおかげで目的のものも手に入ったしな。」
「最悪。気付いてたくせに止めなかったの?」
「いーや?止める前にお嬢ちゃんが扉を開けたんだ。さ、できたぞ。」

傷は綺麗に塞がれ、空気と擦れ合うたびにヒリヒリとした痛みが走っていたのが嘘のようだった。目線だけ上げて見ると、男は目元だけで優しく笑って見せ、彼女は言うべきだった言葉を何故かそのまま呑み込んでしまった。
その言葉を吐き出すタイミングをすっかり失ってしまった彼女は、誤魔化すように建物の設計図を広げ、今いる部屋を確認しはじめる。男はすぐに現在地を指さして見せ、そこからどう出口まで見つからずに行くかを黙って指でなぞった。
何もかも完璧に計画され尽くしている――、彼女がそう思ってまたじっと男を見ると、男は目元だけで少し困ったような顔をしてから部屋を出て歩き始めた。

「お嬢ちゃん。悪いとこは言わんから、こういうことはこれっきりにしなさい。危なっかしくて見てられん。」

男は突飛押しもなくそう言った。
その目には何の裏もなく、ただ言葉通りの感情がそこにあった。

「私は、こういう生き方しかできないんだ。産まれた時から決まってたんだよ。」
「生き方は変えられるぞ。俺がそうだった。」

男が静かに、と言うかわりに人差し指を口元にあてる。
その先を見やると、出口へと繋がる唯一の通路には見張りが数人立っていた。恐らく、彼女が侵入していることが既に知れているために、外に出させるものかと張っているのだろう。
こうなると無事に外に出る方法はひとつしかないが、それは決して穏やかな方法ではない。

「さ、お嬢ちゃんはそろそろ帰りなさい。あとはオッサンがどうにかするから」

男は禍々しい刀をすらりと抜いた。
柄も鞘も、刀身すら黒く光るその刀はあまりにも印象的で、彼女は魅入られたようにその姿を見ていた。
その淀みなく行われた動作に、選択に、彼女はこの男が単なる諜報員ではなく、何らかの組織に属する戦闘員だということを察した。この国の中で、こんな危険な場所において単独で戦える戦闘員を持つ組織などそう多くは無い。彼女の頭の中にはある組織の名がよぎった。

「でも、私、あんたの名前さえ知らない」
「何か不都合なことがあるか?もともと、お互い知らないもの同士だ。」

探りを入れる彼女の言葉を、男は見事にかわして見せた。

「礼ができてないじゃん。私、あんたに色々してもらってばっかだ。」
「ん?あぁ、……。下着の色は黒だった。」
「……最低!!ああもう、私が馬鹿だったよ。どうなっても知らないからな!」

彼女は後ろを一度も振り向かずに、外へ繋がる扉へと走って行った。
後ろで見張りがあっと声を上げたのが聞こえたが、その後は重たいものが床に落ちる音がしたのみで、彼女が想像していたような戦闘の騒々しさが続くことは無かった。

扉に手をかけ、外の空気を吸い込んだ瞬間、頭の中でさっき起きた出来事がばらばらに消えていくのを感じる。
彼女がそう思った時には、見知らぬ扉の前に立っていて、そのことすら忘れ去ってしまった。