ゆっくりと目を開けると、ミラはベッドの上に横たわっていた。
意識がぼんやりとしていてはっきりとはわからないが、それなりの時間眠っていたような気がした。ここ暫くずっと仕事に時間を割いていたミラは、ベッドに横たわることすら久しぶりで、ふかふかの布団とそのいい匂いに包まれているのがとても幸せに思えた。
「あれ?ここどこだっけ。」
ミラは職業柄、一箇所に長期間留まらず、拠点を持たずに生活している。自由に動きやすい、自分の素性について知られるリスクが少ないなどの理由からだが、本当のところどうやって生活しているかは誰にも明かしたことがない。そうした不安定な生活を送っているミラだが、最近はずっと不休で動いていて、宿すらない状態が続いていた。
どうして今、自分はふかふかのベッドに横たわって寝ているのだろう。だんだんと意識がはっきりしてきたミラは疑問に思い、心地良さを堪能していたところから一瞬にして表情を変えた。
ミラは顔と視線だけをゆっくりと動かすと、周りの様子を窺った。落ち着いた雰囲気にアンティーク調の室内装飾。すぐにピンと来ない感じから、なじみのある場所ではないというのは間違いないのだが、何となく見覚えがあった。それもごく最近に見たような気がする。
記憶の糸を繋ぐようにしばらく古びた扉を見つめ、ミラは何かを思いついてはっと上半身を起こした。
「ここ、もしかしてあの店の…!」
この部屋は色々調べまわっている間に見た、ホフマンの自室らしき部屋だった。
一体なぜ自分がここで眠っていたのかわからず困惑する気持ちを、ひとつ大きく深呼吸をして落ち着かせた。そしてじっと考え込むようにして、昨日何があったか冷静に振り返る。
店に来て色々な部屋を調べて、裁ち鋏を触ったときにホフマンの過去を知り、彼自身忘れてしまった記憶があることに気付いたところまで思い出す。しかし、その先のことが曖昧になっていて思い出せない。記憶を操作されたかとも思ったが、どこかぼんやりと思い出せそうな感じもある。
それにしても、よく知りもしない男の家に自らの意志で留まるなど、普段のミラにとってはありえないことだった。一体何があってこの状況に至ったのか思い出せず、ミラは困惑していた。
ホフマンの第一印象が強烈だったのが要因なのだろうが、ここに留まるとろくなことにならないような気がして、ミラは彼がこの部屋に来る前に立ち去ろうと身を起こした。
「…な、何これ!?」
ミラは立ち上がった途端に驚きの声を上げ、自分の姿、正確に言うと着ているものを見てふるふると震えながら立ち尽くしていた。
そうしているところに丁度扉が開く音がしてホフマンが顔を覗かせたことに、気が動転しているミラは気がつかなかった。ホフマンはミラが目覚めた様子を見ると、部屋の中へと歩みを進め、穏やかな表情で話しかけてきた。
「お目覚めになられたようですね。」
「ちょっとどういうこと!?今すぐ私が納得するように説明してもらえる!?他のお客さんにもこういうことしているの!?だとしたら問題だと思うけど!?」
ミラは下着の上に男物のシャツを一枚羽織っただけの姿で、怒りなのか羞恥心なのかよくわからないもので震えながら、ホフマンを睨みつけていた。恐らく、ホフマンなりに気を使って着替えさせたのだろうが、その気遣いが見事に仇となっている感が否めない。
その問いに対し、ホフマンはぴくりとも表情を変えることなく穏やかに答えた。
「女性物の寝巻きを持ち合わせていなかったものですから、生憎そのようなものしかなく…。もっと美しいものがあればよかったのですが。申し訳ございません。あと他のお客様に関しては、ええと。よく覚えておりません。」
「君は客のことも記憶からなくなっ………じゃなくて!何で私はここで寝ていたの!?」
「ああ。それは、お客様が意識を失うように眠ってしまわれたからです。」
ミラはその返答にぐっと押し黙った。そう言われてみれば確かに、恐ろしい記憶を長く遡って見すぎたせいで、あの後急に体が重くなって意識を失いそうになったところまでぼんやりと思い出せる。これまでにも体に負荷をかけすぎて倒れたことがあったミラは、今回も同じようなことをしてしまったのだと、すぐに納得した。
最初ホフマンが何か自分にしたのではないかと疑っていたが、実際のところは自分が迷惑をかけていた事実を知り、ミラは少し申し訳ない気持ちになった。
「そんなことより、あれから作業が驚くべきほど進みまして。完成したので是非ご覧になっていただきたいのです。」
ホフマンが昨日のことも今日のことも大した問題だと思っていないどころか微塵も気にしていない様子で喋り始めたのを見て、ミラは細かいことを考えるのをやめることにした。常識という尺度をもってこの男と接しようとすること自体が間違いだと言うことが、だんだんわかってきた。
この短期間で一気に一着完成させられる集中力と技術は、並大抵のものではない。恐らく常人とは違った感性を持った人だから何もかも仕方の無いことなのだろうということにして、ミラは黙ってホフマンの後ろについて歩いていった。
店の中に入った瞬間ミラの目に飛び込んできたのは、アメジストを思わせるような紫色をしたドレスだった。そこにあるだけでその場の空気を変えるようなその存在感に圧倒され、ミラは暫くその場に立ち尽くした。
きゅっとくびれたウェストラインに、膨らんだスカートの対比が印象的なそのドレスは、ふちに縫いつけられたブレードもフリルも、落ち着いた色の繊細なレースも、どれをとっても美しい。素人目からしても、この仕上がりは短時間で作られたものとは到底思えなかった。
ミラはゆっくりと近寄っては指先で遠慮がちにドレスに触れると、その周りをぐるりと一周しながら細部まで全てを確認するように眺めていった。
「すごい…これを、あの短期間で作れるものなの?」
「ええ、途中でデザインの修正を思いつきまして、そこからあまりに楽しくなって夢中で進めてしまいました。さ、お客様。どうぞご試着を。」
言われるままにそのドレスに袖を通すと、体のラインに吸い付くように細身に作られているのに、不思議と締め付けた感じはせず、とても着心地がよいと感じた。布やレースがたっぷりと使われているがバランスがよく上品で、ただただ装飾が多くて華美なだけの服とは比べ物にならない美しさだ。
ミラはあまりの仕上がりのよさに、鏡の前で角度を変えては何度も何度も自分の姿を確認していた。ホフマンはそんな様子を柔らかな笑顔で見つめ、満足そうな様子で佇んでいた。
「あ、えっと。支払いの手続きをしないと。元の服に着替え…」
「いえ、お客様。とてもよく似合ってらっしゃいますので、是非そのままでお帰りくださいませ。」
「え、でも…」
ミラは次の言葉を言いかけて顔を上げたが、そこに見えたのは、有無は言わせないホフマンのにっこりとした笑顔だった。威圧的ではないのだが、その笑顔からはどことなく逆らいがたいものが発せられている。ミラはその先に続く言葉を口に出すことができずに、実に微妙な表情をしたまま固まってしまった。
ミラが黙ったのを確認したあと、今度はホフマンが口を開いた。
「服は着られてこそ価値があるものでございます。そして、美しい身体は美しい服に包まれてこそ価値があるものでございます。」
「それは尤もでしょうね。それはそうとして、私の元の服を返してくださいます?」
それまで支払いの手続きなどを慣れた様子ですすめていたホフマンの手が、一瞬止まった。その小さな変化に気付いたミラは少し首をかしげ、もう一度同じ趣旨のことを繰り返すと、ホフマンは顔を上げずに少し詰まったようなはっきりしない口調で喋り始めた。
「…その、多少、形が…変わっておりますが。」
「……。」
ミラはやっぱりそうか、と思いながらも、ホフマンが追加の請求をしてくる様子もないのを見て、それ以上深くは追求しないことにした。昨日迷惑をかけた引け目もあるし、何よりこれ以上話をこじらせたくなかった。
ホフマンの事務作業はすぐに終わり、請求金額を支払うための紙をミラに手渡した。ミラはそれをそっとしまいこんで、ぱっとホフマンの顔を見上げた。
「ありがとう、また来ますね。」
「有り難いお言葉でございます。もし、この店のことを気に入っていただけたのでしたら、この招待状を何方かにお渡しくださいませ。」
「招待状ね。わかったわ。」
「ええ、それが次のお客様の手に渡るところまでが私の仕事でございます。それでようやく私の今回の仕事が完了するのです。」
どこかで聞いたような台詞に、ミラは口元に手を当てていかにも上品そうにふふ、と笑ってみせた。
この招待状も例に漏れず記憶を消すための鍵となっていて、これが次の人の手に渡ったとき、ミラの記憶あるいはホフマンの記憶も消えてしまうことだろう。
いや、「消えるように仕掛けはしてあるのだろう」。
記憶を保持したまま、自分がまた会いに来たらどんな反応をするのだろうと想像するとおかしくてたまらず、ミラは店の外へと出る扉の前で立ち止まって、また笑った。それからミラはふっと真顔に戻って、一度ホフマンのほうを振り返った。
「また、ここに来るから。貴方が私のことを忘れたって、私は貴方のこと覚えているんだからね。」
ミラから飛び出した言葉は予想外のもので、ホフマンは少し驚いていた。今までそんな言葉を残して帰っていった客は誰一人いなかったからだ。ホフマンが驚いている間に、少し手を振りながら店を出て行くミラの姿は完全に扉に遮られ、見えなくなった。
ホフマンは暫くそこにぼんやりと立ちつくしていたが、何かをふと思い出したかのように振り返ると、店の奥へと戻っていった。
—
あれから何日くらい経っただろうか。
ホフマンは相変わらず外の光を一切入れない店の中で、デザイン画を描き進めていた。新しいお客さんに合わせてのデザインだが、何だか気持ちが乗らないというか、進まない。自分が描きたいのはこういうものじゃない、じゃあ自分が描きたいものとは何なのか?ホフマンは今まで抱いたこともない違和感に少し戸惑っていた。
何かが突っかかっているような感覚。モヤモヤとしたまま取り除けない違和感。もっと他に作りたいと思ったものがあったような気がするのに、思い出せない。思い出すとはそもそもどんな感覚だったか、それすらも思い出せないような気がしている。
ホフマンの手がデザイン画を描くのをやめてから、暫くの時が経っていた。
「こんにちはー。店長さんはいらっしゃるかしら?」
突然、外の光を入れないこの店に似つかわしくないほど明るい声が響いた。
静寂を破った意外な音にホフマンは珍しくはっと驚いたように顔を上げ、その先に立つ姿を捉えた。金色の短い髪、赤と青のオッドアイの、男装の麗人と呼ぶのがピッタリの女性。彼女は意味ありげに目を細めて笑っていた。
「…どうして、ここに。」
ホフマンは自分でもどうしてこの一言が出てきたのかよくわからず、発言してからすぐに口元に片手をあてて、考え込むような仕草をした。知らないはずなのに、その女性の姿を見た途端咄嗟にその言葉が飛び出してきた、といった感覚だった。
訪れた女性――、ミラはなぜだかとても得意げな表情でつかつかと歩みを進め、ホフマンの問いに対する答えを出した。
「だって約束したからね。それに私の調べたかった本当の目的について、調べきれてないし。」
ミラは目の前まで近づき、長身のホフマンを見上げて笑った。少し持ち上げた手には紙袋が握られていて、中から甘くていい香りが漂ってきた。
「今日はバウムクーヘンにしたんだ。」
ホフマンの記憶が、蓋をされて二度と出てこないようにされたはずの記憶が、箱から漏れ出し、やがてそれは本人がしっかりと自覚できる程度に膨らんでいった。
ふとホフマンはミラの髪に少しだけ触れた。
「貴女は…このような、お顔立ちを、されていたのですね…?」
その手つきが今までとは違って不慣れなのに違和感を感じたミラは、きょとんとした顔でふとホフマンの顔を覗きこんだ。何気なく表情を見たつもりだったが、ホフマンがその紫色をした両の目でしっかりと自分の目を捉えて見つめていたのにミラは驚き、どういう表情をしていいかわからなくなりぷいと顔を背けた。
「あー。あの、前は女子力高めできたからね。今日の私が本来の姿だよ。驚いたかな?」
「…ええ。とてもとても驚いております、よ。」
「ほら、せっかく焼きたてのをもってきたんだから。お茶淹れてよ。」
やれやれ、と言った感じでお茶を用意しに行くホフマンの背中を見て、ミラは満足そうな笑顔を浮かべた。
「…どれだけ忘れさせようとしたって、私は絶対、君を思い出すんだからね。無駄なことはしないでよ?」
今からちょっとだけ前の話。
これが彼らの出会いだった。