日が隠れはじめた薄暗い石畳の小道。風のざわめきと落ち葉の踊る音に紛れるようにして、その中を1人の女性が歩いてくる。美しい金色の髪とネイビーのコートドレスを靡かせるその女性は、進む道の先に背広を着た二人の男が深刻そうな面持ちで立ち話をしているのを見るなり立ち止まって目を細め、僅かに首をかしげるような仕草を見せた。
「無防備だなあ。ふふ。頭の弱い男は大好きだよ…」
彼女は人の情報を売り買いして生計を立てている、いわゆる情報屋と呼ばれる人間。名前はミラビレと言うらしく知った人間には「ミラ」と呼ばれているが、生い立ちや年齢、どこを拠点にしているかなどの情報は何ひとつわからず、これが本当の名であるかどうかでさえ疑わしいという。ただひとつ、彼女の存在を知っている者は「ここまで性質の悪い情報屋は他には居ない」と口を揃えていうのだった。
ミラは今、貴族階級の中に紛れ込んで依頼されている情報を収集すると同時に、彼女個人が求めている”とある不穏な情報”を手に入れようと動いている。大抵こういう階級に居る人間は、無意味に積み上げた金の城壁を死守するために、そういうものと接点を持っていると決まっているからだ。
男達が話を終えて立ち去った後、ミラはすっと物陰から姿を現し、片方の男が落とした煙草の吸殻を拾い上げた。それを軽く握ると、美しく着飾ったその姿には似合わない、不敵な笑みを浮かべる。
これこそ彼女が、性質の悪い情報屋と称される一番の理由だ。
ミラは生まれながらにして物に残された過去を辿って見られる能力を持っている。ミラにとっては、拾い上げた一本の煙草の吸殻から今ここで行なわれていた会話の全てを覗き見ることなど、呼吸するのと同じくらいに簡単なことだ。誰にも気付かれることなく、時には本人ですら忘れてしまったような記憶さえも拾い上げていってしまう――。
関わるとろくなことにならないと言われ、積極的に近付いてくる人間は多くない。
「今回の依頼は簡単そうだけど、張り合いがなくてつまんないな。さっき教えてもらった店に行ってみようかな…。」
ミラは踵を返すとまた音もなく歩き出し、薄暗い小道の景色の中に消えていった。
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――それは数時間前のこと。
「あら、とっても素敵なドレスね。貴女っていつも魅力的で、本当に羨ましい。」
ミラは、目の前に広がる無意味に飾り立てられた階段を、これまた無意味に気取った様子で降りてくる女性に話しかけた。もちろんミラにとってはどうでもいいただのお世辞だが、女性はその一言に機嫌をよくしたのか、片手を頬に当て困ったような素振りを見せながら、活き活きとした口調で喋り出した。
「ありがとう“ミラベル”さん。これはね、とある仕立て屋に作らせたもので、とっても気に入っているのよ。今まで数え切れないくらい色んな仕立て屋にドレスを作らせてきたけれど、これはその中でも出来がいいほうだと思うわ。」
「ふうん…」
狂いきった金銭感覚を少しも隠す素振りなく見せ付けてくるその女性に、ミラは素っ気ない返事をする。話しかけたのはこの女性がこの界隈の重鎮と関係があり、繋がりを持てば駒として使えそうだと思ったからで、会話の内容にも、美しいドレスを台無しにしている品のない彼女自身にも、大して興味はなかった。女性のほうはそれに気付いているのか気付いていないのか、そもそもミラの反応など気にしていないのか、得意な様子で話を続けた。
「そうそう、その仕立て屋からお友達を紹介してほしいって招待状をいただいたのよ。貴女も行ってみたらどうかしら?あなたもほら、綺麗なドレスの一着くらい持っていないと恥ずかしいでしょう?」
女性はミラの返事も待たずに白い封筒を差し出していた。
ミラは大してその招待状にもあまり興味はなかったが、この狂った人間の中で上手く仕事を進めていくためには、こういう一見無駄に見える付き合いとやらが意外と後々効いてくると知っている。特に相手が利用価値のある人物であるなら、尚更だ。
あまり気は乗らないが、ひとつ話のネタにしてみるかと思ったミラは、素直にその招待状を受け取ることに決めた。
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「…この辺りだと思うんだけどなあ。」
ミラは招待状を片手に、きょろきょろと辺りを見回しながら歩いていた。
描かれた地図通りに進めば進むほど町の賑やかな空気は遠ざかり、肌寒い季節なのも相まってどことなくミラの不安な気持ちを煽った。お店がある雰囲気どころか徐々に人の気配も少なくなり、気付けば周りには人ひとりすら居なくなっていた。
「こんなところに店なんてあったっけ?」
街灯も少なくなりはじめた道のその先にふと目をやると、華美ではないが簡素過ぎもしない、少し古びた雰囲気の建物がひっそりと建っていた。その佇まいはどこか懐かしく、美しく、ふらっと立ち寄った人が気軽に入店できるような空気ではなかった。
「TALOR HOFFMAN SINCE ? ……なんだこの怪しい店。見つからなくて当然だよ。」
看板に書かれた文字を目で追うが、創業年の部分は剥がれ落ちたのか読めなくなっている。その店は中に明かりが灯っているかどうかもわからず、薄暗さに包まれていた。あらゆる窓という窓がカーテンに遮られていて中の様子がわからず、もしかして休みの日だろうか、と思いながらも表の扉のノブに手をかけた。
鍵は開いている。少しずつ扉を開けると中は明かりがついていている。ミラはゆっくりと店の中へと歩みを進めた。
「こ、こんばんはー…?」
「いらっしゃいませ。貴女が新しいお客様ですね。」
声がした方に目をやると、そこには店に漂うアンティーク調の雰囲気から想像できる店主像からはかけ離れた、まだ少年の雰囲気を残すくらいの歳の青年が座っていた。そのどことなく儚げにみえる青年は、眼鏡ごしの瞳でミラをじっと見つめていた。
ミラは、恐らくこの青年が看板に名のあった「ホフマン」なのだろうと思い、会話を続けた。
「貴方が店主?思っていたよりずっと若いわ」
ミラが不躾にもいきなり本音を漏らしたのに対し、ホフマンは「よく言われます」とだけ、少年の雰囲気の残る顔立ちには似つかわしくないほど大人びた声色で答えた。
ホフマンは椅子からそっと立ち上がって言葉を続けた。
「…この店は、祖父が始めた店です。その後私の父が店を継ぎ、父から私に受け継がれたのです。古びた雰囲気は、そのためです。」
ホフマンは先ほどのミラの疑問に答えるように、店の簡単な経緯を説明し始めた。話しながら奥のカウンターから一歩一歩ゆっくりと近づいてきて、ミラが「なるほど、それで」と返事をしたときには、ホフマンはすぐ目の前に立っていた。
初対面の割に近過ぎるその距離感にいくらかの違和感を覚えながらも、ミラはホフマンの顔を見上げながら女性らしく笑みを浮かべ、本題を切り出した。
「え……っと。私、招待状をいただいて、」
「美しい身体でいらっしゃいますね……、とりあえず服を全て脱いでいただけますか。」
話を切り出したミラの台詞を遮るようにして発せられたホフマンの一言は、あまりにも唐突だった。ミラは理解が追いつかず、暫くホフマンをじっと見つめたあと、やっと驚きの声をあげた。
初対面の男から最上級に空気を読まないタイミングで言われた3つめの台詞が、自分の身体に関する感想と「脱げ」という要望だったのだからミラの反応は至極真っ当なものだったはずだが、ホフマンは逆にそれを見てとても不思議そうな顔をしている。
「あの、聞こえませんでしたか? 服を全て脱いでください。」
「いきなり何を言うのかしら?もういい、私、帰りますね!」
ミラは思わず顔を背け、ばっと振り向いて店の外へと向おうとしたが、それは叶わなかった。気付くと、ミラの手首をホフマンの手ががっちりと掴んでいた。
「ちょ、っと、何するの!帰るって言ってるでしょ……!?」
「いえ、でもそういうわけにもいきませんので」
言うが早いかホフマンは更に半歩前へ、ミラの両足の間に片足を割っていれるほどに近づき、素早く腰の辺りに手を回して引き寄せた。
ミラは少し身をかがめて密着してくるホフマンの肩に顔を埋める状態になり、心臓が跳ね上がるような感覚を覚えた。危険なことも数限り無く経験してきたミラに反応する余地も与えないその身のこなし、抵抗してもぴくりとも動かない力の強さは、ただの一般人のそれとは到底思えなかった。
こいつは只者ではない、最悪の事態だけ逃れられるなら多少の痛みは覚悟しなければ――そんな考えがミラの頭を過ぎった。
身体の後ろ側で押さえ込まれている腕に、ひんやりと冷たいものがあたるのに気付き、ミラは再び息が詰まるほど鼓動が跳ね上がる。もしかして刃物ではないか、と思ったが、その後に続くのは両方の手首が締めつけられ身体の自由が利かなくなる感覚だった。どうやら、何かで後ろ手に縛られているようだった。
ミラが何とか解くことができないかともがき始めたとき、ホフマンの手がするするとミラの胸の辺りを通過して、上着のボタンに指をかけた。ボタンをひとつひとつ外す手つきはいやに慣れたもので、それがまたミラの嫌悪感を倍増させていく。全てのボタンを外し終えると上着を肌蹴させるようにして、次はブラウスのボタンへ。ミラはびくんと一度大きく身体を跳ねさせた。
「あ、あぁ… いや、嫌ぁっ…!!」
ミラは、最初に考えていたのとはまた別の最悪の事態を予期して恐怖のあまり震えはじめるが、ホフマンはそんな様子も一切気に留めることなく順序良くボタンを外していく。
そんななかミラは、自らを縛っているものから、色んな箇所から記憶が流入してくる感覚を覚え、意識がそちらに飲み込まれていった。
…
長いスカートの裾をふわふわと揺らす女はとても上機嫌だ
弾むような口調で 気に入ったわ、このドレスもあなたのことも、と、ありきたりな言葉を紡ぐが、視線の先に居る男は目を伏せたまま 同じようにありきたりな礼の言葉を返す
少し間を空け 再び男が口を開く
「気に入っていただけたのでしたら、これを。この招待状が何方かの手に渡って、それでようやく私の仕事が終わるのです。」
白い封筒を差し出して 彼は穏やかに笑った
…
しんと静まり返った部屋の中 一心不乱に文字を綴る男
聞こえるのはペンを走らせる音だけ
かすかに感じられる狂気 綴られるのは思いか呪いか
静けさを破ったのは 浅いため息
綴った紙を封筒にしまいこみ 紡いだ言葉は短い
「全て忘れて、全て終わり。貴女にも僕にも、後には何も残さない。」
白い封筒を持ち上げて
彼は悪戯な子供のようににやりと笑った
…
ミラは暫く読み取った記憶のほうに意識が向いて静かにしていたが、自分が縛られて衣服を脱がされていたことを思い出し、はっと顔を上げた。
何か悪いことをされるのではないかという予想は幸運なことに見事に外れ、視線を下に向けるとホフマンは床に片膝をついた状態でミラの腹部の辺りにぐるりとメジャーをまわし、夢中になって体中のサイズを測っていた。
「実に美しい。こんなに美しいトルソなのに、どうして勝手に動いたりしてしまうんでしょう。」
「あの……」
よくわからない言葉を発し続けるホフマンに、思わずミラは冷静に喋りかけた。
「サイズを測りたいだけなら、最初からそう言ってくださらない?心臓が止まるかと思うくらい驚いたのに。」
「それにしてもいい身体ですね。このような美しい身体は久しぶりに拝見いたしました。」
「人の話聞けよ。」
「それでは、解きますので動かないで下さい。」
「そもそも最初から縛る必要はなかったと思うのだけれど…」
「?」
「…。」
何故、とでも言いたげな表情で首を傾げるホフマンに、ミラは呆れて言葉も出なかった。その様子もさほど気にすることなく、ホフマンはサイズを測り終えた満足感に浸ったまま、あっさりとミラの手首を縛っていたものを解いていく。今しがたまで自分の身体の自由を奪っていたそれに視線をやると、帯上に、細かな目盛と数字が規則的に延々と並んでいた。
「……メジャー? こういう風に使うものじゃないと思うのだけれど。」
「いいデザインが思いついたので、すぐに仕上がると思います。」
「人の話聞けよ。」
「暫くしたら、またお越しくださいませ。」
「…。」
最後の最後までミラの話は無視され、結局何もかもかみ合わなかった。
ホフマンの振る舞いが意図的なのかそうでないのかは全く検討がつかず、それに振り回されたことへの悔しさだけが残った。嫌味のひとつでも言ってやろうかとは思ったが、長く留まっていると自分のほうがおかしくなりそうだと思い、ミラは無言のまま着衣の乱れを直し、足早に店を出た。
何気なく来てみたこの店が、一瞬の間に「気になる存在」へと変わってしまった。垣間見えた過去の彼が本来の姿だとすると、油断はできない。踏み込むべきでない領域かもしれない、そんな予感がしていた。
ミラはホフマンの店を出てから、一度だけ振り返って、夜の景色に消えていった。