01. Mad Tailor

身体をじわりと包むひんやりとした肌寒さで、ゲラルトは目を覚ました。頭上でゆらゆらと揺れる照明の明るさが目に刺さり、思わず顔をしかめた。

「……何処だ、ここは……。」

身体が石になったように重たく、意識にぼんやりと靄がかかっている。背中に感じる硬い感触で、自分が何かしらの台の上に寝かされていることだけは分かった。

身を起こそうと腕を動かそうとした時、ゲラルトは身体の自由が効かないことに気付いた。一気に意識がはっきりする。ハッとして視線を自分の身体に向けると、四肢と胴部に何か白い帯状の物を巻きつけられていることが分かった。左の肩から手首にかけては、特にギッチリと締めあげられている。台に磔にされた格好で、ゲラルトは拘束されていた。

首を無理やり動かして、周囲の様子を確認する。部屋は思いのほか広く、ゲラルトの両手側には壁一面を覆う木製の棚が置いてあり、それぞれ大小様々な種類の引き出しが整然と並んでいた。頭の上方は分からないが、足元の方には扉が見えた。少なくとも例の研究所の一室ではなく、一見危険は無いように思えたが、何処とも知れぬ場所で拘束されている以上、楽観はできなかった。拘束から抜け出そうとゲラルトはもがいたが、強烈に縛り上げられている上に血が足りていない所為か、ろくろく体を動かすこともできなかった。

そもそも、何故こんなことになっているのか。これまでのことを思い出そうとすると、頭の後ろが鈍くズキズキと痛んだ。ギリリと奥歯をくいしばって、ゲラルトは必死に記憶の糸を手繰った。痛みと貧血で頭がまともに働かず、記憶が混迷しているが、何とかゲラルトはきっかけをつかんだ。

新たに見つかった研究所の拠点の殲滅のため単身で夜襲をかけに出たことを、ようやくゲラルトは思い出した。
事はほぼ計画通りに進み、ゲラルトはその場にいた人間を何の感情も無いような顔で容赦なく撫で斬りにした。妙に応戦の増員が多いような気はしたが、ゲラルトは躊躇なく自らの手を切って能力を発動し、難なくその場を切り抜け、そのまま何事もなく任務が完了すると思っていた。

最後の1人を手にかけようというその瞬間、血の匂いで満たされた部屋で、ゲラルトの脇を全く別の匂い――異質な気配がすり抜けていった。

それに気付いたのはゲラルトだけではなかった。目の前にいた人間が血相を変え、目の前に居るゲラルトのことすら目に入らなくなった様子で、何か叫びながら扉の外へと飛び出して行った。酷く狼狽えたその男の発する言葉はほとんど言葉として意味をなさないものであったが、たった一言ゲラルトの耳に確かに届いたものがあった。

「小鳥が、逃げた」

追いかけなければならない。ゲラルトの身体は考えるより先に動き、開け放しになった扉から勢いよく飛び出していた。
死に物狂いで見えない何かを追う男を、ゲラルトは追いかけた。力を発現させる際に切った左手から、とめどなく血が溢れていたが、自分のことなどどうでもよかった。ゲラルトはその小鳥と呼ばれる異質なものが、自身の任務遂行にとってどれほど重要な意味を持つかを知っていた。

やがて男は人気のない路地へ逃げ込んだ。そこまではゲラルトも追いかけられたのだが、失血からほんの僅か眩暈を起こした寸の間、そこにあるはずの男の姿がすっかり消えていた。不自然なほど一瞬で消えたその男の行く先を気に止める余裕もなくなっていたゲラルトは、追っていた異質な気配が目の前の建物の中に消えていったような気がして、それが何の建物なのかもよく考えないままに扉に手をかけた。
その扉を僅かに開けた瞬間、ゲラルトは頭部を硬いもので激しく殴打された。脳みそが揺れるような衝撃にゲラルトは膝をつき、そこへもう一発、頭に強かな一撃をくらって、そのまま、意識を失った。そして次に目が覚めたら、拘束されていた。

不意に、こちらへ近づいてくる足音がゲラルトの耳に届いた。コツコツという硬い踵の音。やがて、ゲラルトのいる部屋の扉の前で足音が止まり、がちゃりと静かにドアノブが回された。静かに扉が開いて、何者かが入室してくる。一気に緊張感が高まり、身体が無意識のうちに強張る。
無理やり頭をもたげて、ゲラルトは侵入者を見た。視線の先にいたのは、見覚えのない人物だった。眼鏡をかけ、パリッとしたワイシャツにベストを合わせた、きちんとした身なりの黒髪の青年である。ゲラルトがこちらを見ているのに気がついたらしく、青年は驚いたように軽く目を見開いた。

「おや、お目覚めでしたか。お待たせしてしまったようで、申し訳ありません。」

青年はゲラルトの側近くへ歩み寄りながら言った。一気に色々な疑問が噴出する。この男は誰だ?この男が自分を拘束したのか?目的は?殺す気なのか?

「ご気分は如何ですか?かなり出血が酷かったので、かなり強めに止血しておいたのですが、お目覚めにならなかったらどうしようかと」

「……私のコートは何処だ。」

青年の言葉を丸ごと無視して、ゲラルトは問うた。その問には大した意味はなく、要するに自分を生かして返す気があるのかということを聞いているのだが、青年は無視されたことを特に気にした様子もなく、穏やかに返答する。

「手当のために脱いで頂く必要がありましたので、お手持ちの刀と一緒にお預かりしてあります。付着していた血も簡単に洗い落として、ボタンも無くなっておりましたから、店の在庫から同じものをつけ直しておきました。」
「店……?」
「はい。ここは私の店です。申し遅れましたが、私はホフマンと申しまして、仕立て屋をしております。どうぞ、お見知り置きを。」

ホフマンと名乗った青年は胸に手を当てて軽く頭を下げ、にっこりとゲラルトに笑い掛けた。しかし、その柔和な笑顔に対して、ゲラルトはホフマンに鋭い視線を投げかけた。

「何故私を店に入れた。」
「店の前に、お客様が倒れていらしたからです。見捨てておくことなど、とても。」
「本当にそれだけか?」
「……それだけ、と仰いますと?」

ゲラルトの言わんとする所が汲めなかったらしく、ホフマンは少し困惑したような表情になった。

「分からないか。手当をするだけなら、私を拘束する必要はないはずだ。」

敵意を露にし、はっきりと威圧する姿勢を見せてゲラルトは言ったが、およそひるむ様子もなくホフマンは平然と答えた。

「ええ、それは仰る通りです。」
「……は?」

予想の斜め上の答えだった。思わず、ゲラルトは間の抜けた声をあげてしまった。この男が何を言っているのか、ゲラルトには全く理解できなかった。

「手当のために、人を拘束する必要はございません。当然のことだと、思われますが。」

ホフマンは困惑の表情を浮かべて、ゲラルトを不思議そうに見ていた。この人は何を言っているのだろう、という気配がありありと見てとれる。前に進まない会話に、ゲラルトは苛立ちを募らせたが、必死に押し殺して努めて冷静に言った。

「ならばこの状況は一体何だというんだ、現に私はこうして拘束されているだろう。手当も済んで、拘束の必要がないというのなら、さっさと私を解放しろ。」

しかし、またしてもホフマンはあっさりと、ゲラルトの意に反することを実に丁寧に言ってのけた。

「申し訳ありませんが、そのご要望にはお応え致しかねます。お客様をこうして留め置いているのには、理由がございますので。」
「……お前……、人を馬鹿にするのもいい加減にしろ」

さすがに堪え切れなくなって、ゲラルトは声を荒げ、身を起こそうと抵抗した。苛立ちに任せて拘束を解こうとしても、ギリリ、と身体を縛る帯の拘束が強まるだけだった。縛られたまま無理に抗うゲラルトを、ホフマンは慌てて止めようとした。

「お、お客様!そのように動かれてはお怪我に障ります。」
「黙れ、私はお前の客などではない。答えろ、一体何の目的で私を拘束した?否、理由など聞きたくない、さっさと、今すぐ、解け!」

ホフマンの慇懃な態度が余計に怒りを煽って、半ば叫ぶようにゲラルトは命令した。ありったけの敵意を視線に込めて、ホフマンを睨みつける。ホフマンは眉を八の字にしてその様子を暫く黙って眺めていたが、やがて一つ小さくため息をついて、口を開いた。

「……畏まりました。すぐに済ませますので、今しばらくお待ちを。」

そう言ってホフマンは、くるりとゲラルトに背を向けて、棚に並んだ引き出しの一つを開けて何かを取りだした。もう一度ホフマンが自分に向き直った時、ゲラルトはその手に握られているものを見て、思わず息を飲んだ。

それは、大きな裁ち鋏だった。艶やかな黒い持ち手に、スラリと長い銀色の刃。よほど丁寧に手入れをしているのだろう、恐ろしく鋭利なことが見て取れた。人間の皮膚を切り裂く程度なら、恐らく造作もない。それを取りだしたことが何を意味するのかはっきりとは分からずとも、危険であることに違いはなかった。

「おい、お前、それで何を」

今度はホフマンがゲラルトの言葉を無視する番だった。ホフマンはすっかり鋏に集中しているようで、しゃきん、しゃきん、と何度か刃を開閉したり、シャンデリアの灯りに刃をかざして、その具合を確認したりしている。最後に、ハサミを表、裏、と返してチェックを終えたところで、ホフマンは独り言のように呟いた。

「……うん、問題ない。これなら綺麗に切れる。」
「おい、お前、何をするつもりだ」

ホフマンは質問に応じないで、再びゲラルトの近くへ歩み寄った。右手にはしっかりと鋏が握られている。
ホフマンは伏し目がちに、ゲラルトの胸元あたりに視線を落とし、口を開いた。

「お客様をここに留め置いた理由は二つ。一つは、お客様のお身体があまりにも見事だったからでございます。」

鋏を持っていない左手で、ホフマンはゲラルトの足首に触れた。そうして、膝、太もも、腰、脇腹、上腹部、胸と、ゆっくりその形を確かめるように、ゆっくりと撫で上げ、陶然とした表情を浮かべた。

「……あぁ、やはり素晴らしい。実に美しい身体です、服をお召しになっていても、私には分かります。かように優れた肉体は、二つとない……。」

ゲラルトの背中を、すさまじい勢いで怖気が這い上がった。うっとりとした口調で話すホフマンの姿は、ゲラルトの怒りと苛立ちを一瞬で刈り取り、代わりに非常な不快感と恐怖心を植え付けた。異常性癖者。そんな言葉がゲラルトの脳裏にくっきりと浮かび上がる。この男は一体自分に何をするのかと考えただけで、脳が思考を拒絶するほどに、異常性を感じていた。

そうして首筋に触れた時、ホフマンは急に真顔に戻って、じっと首を見つめた。

「……もう一つは、残念なことに、そのお身体にあまりにも不似合いなものが付属しているので、それを切り落とすためです。」

ホフマンはゆっくりと鋏を持ちあげた。そして、しゃきん、と軽やかな音を立てて鋏の刃が開いた。完全に思考停止してしまったゲラルトは、ただただ鋏の刃がキラリと鋭利に煌くのを見ていることしかできない。ホフマンの不穏に過ぎる言葉を頭では理解できても、最早抵抗する術は何処にもなかった。

「そのような理由ですので、今少しお待ちくださいませ。すぐに終わらせます。」

そう言ってホフマンは、刃先をゲラルトの首筋に近付けた。あまりの恐怖に息が詰まり、心臓が、早鐘のようにドクドクと激しく脈打った。思わず強く目をつぶり、訪れるであろう痛みに耐えようとした。

シャキン、という音が、ゲラルトの耳の近くでした。

……しかし、予想していた痛みは無かった。恐る恐る目を開けると、べろん、と黒いもの眼前に揺れていた。

「……は?」

予想外のことに、ゲラルトはまたしても間の抜けた声を上げてしまった。目の前に垂れ下がっている黒いものが一体何なのか、頭が混乱しているゲラルトにはさっぱり分からない。

「……何だ、これは」
「お客様のネクタイでございます。」

という言葉とともに、黒いものが視界から消えた。ハッとしてそれを視線で追うと、ホフマンが右手に鋏、左手に黒いものを持って、苦々しい表情でそれを見ていた。

「ああ、本当にろくでもないものです!何というナンセンスな代物でしょう!」
「ネクタイ……?」
「然様でございます。これほどまでに不愉快なネクタイは、未だかつて見たことがございません!!ああ、許しがたい!!」

憤懣やるかたなしという調子で、ホフマンはネクタイを睨みつけながら言った。呆気にとられていたゲラルトだったが、やがてハッと我に返って冷静になると、この状況のあまりのくだらなさに、深くため息をついた。

「お前、それだけのために、私を拘束したのか……?」

無造作にぽいっとネクタイを投げ捨てるとホフマンはゲラルトに向き直り、今度は鋏をゲラルトに見えるように持ちあげてみせた。

「この鋏は実に良く切れる代物でして、なまなかな刀剣よりも優れた切れ味を持っております。ですから、それを切り落とす際、お客様に少しでも動かれると、お怪我をさせる心配がありました故、恐れながらお客様を拘束させて頂きました。……ご理解いただけましたか?」

道理が通っているような、いないような言い分だった。命の危険が去ったことでゲラルトは平静を取り戻し、呆れた口調で投げやりに言った。

「満足したなら、さっさとこれを解いてくれ。」
「あぁ、これは失礼致しました。すぐに。」

ホフマンは慣れた手付きで、あっという間にスルスルと全身を縛っている帯状のものをほどいた。ホフマンが帯を解いて巻きとる様子をぼんやりと眺めていたゲラルトは、そこであることに気がついた。帯上に、細かな目盛と数字が規則的に延々と並んでいる。一体これは何だ、と思ってじっと見つめていたが、すぐにその答えに思い当って、ゲラルトは思わずそれを口にした。

「……メジャー……?」

ゲラルトの声に、ホフマンが手を止めた。

「え?あぁ、こちらですか?仰るとおりです。お客様を固定する際に、他に良いものが見当たらなかったので、これで代用を。」

メジャーでぐるぐる巻きにされていた自分の姿を想像して、ゲラルトはもう一段階、投げやりな気持ちになった。そして、メジャーであんなにガッチリ拘束されていたという事実にもげんなりした。あまりにも馬鹿馬鹿しい、と思った。

「お客様、どうされました?」

よほどうんざりした顔をしていたのか、ホフマンが尋ねる。ゲラルトはホフマンに見向きもしない。

「……その、お客様というのをやめろ。お前の客になった覚えはない。」
「では何とお呼びすれば?」
「好きにしろ。私はゲラルト・シェズムだ。」
「ゲラルト様と仰るのですね、承知しました。」

メジャーを綺麗に巻き取って引き出しの一つにしまいこみ、ホフマンはゲラルトに向き直って頭を下げた。

「お手間を取らせてしまい、申し訳ございません。新しいネクタイと、コートをお渡しいたしますので、どうぞこちらへ。」

ホフマンに促され、ゲラルトは部屋を出た。短い廊下を抜けて次に通された部屋は、受付カウンターのようなものがあり、その傍らに大きな鏡と、ドレスやスーツをまとったトルソが何体か飾られていた。その中の一体に、ゲラルトのコートと、鮮やかな色のネクタイが掛けられていた。足元には、得物である刀がそっと立てかけられていた。トルソに近づいて、ホフマンはするりとトルソからネクタイを解き、それを手にゲラルトに歩み寄った。

「ゲラルト様には、此方のネクタイがお似合いになるかと存じます。」

それは、深みのある色合いの、深紅のネクタイだった。金糸で葡萄の房の刺繍が一つ施してあるだけのシンプルなもの。とろりとした光沢の紅い生地に、静かに煌く金色の葡萄が映える、美しいデザインだった。

「……こんなものは、無用の長物だ。」
「そう仰らず、どうか一度、お召しになって下さいませ。……鏡の前へ、どうぞ。」

促されて、渋々ゲラルトは鏡の前に立った。失礼致します、と一言断ってから、ホフマンが手早くネクタイをゲラルトの首に巻きつける。ネクタイの形を整え、ホフマンは静かに後ろに下がった。

ゲラルトは鏡に映った自分の姿を眺めた。普段はまず身に付けないであろう、鮮やかな色合いのネクタイ。あつらえたように、葡萄の刺繍がぴたりと首元に収まっていた。

「ゲラルト様のコートの裏地が、このネクタイと同じ色合いでしたので、こちらをお勧め致しました。いかがでしょう。」
「……悪くない。少々、派手ではあるが。」
「黒いコートをお召しですから、却って落ち着いた雰囲気になるかと。……コートをどうぞ。」

いつの間にか、ホフマンはコートを手にゲラルトの背後に立っていた。優雅な手つきで、ゲラルトにさっとコートを着せかける。しっかりとボタンを止め切ってもう一度鏡を見ると、なるほどホフマンの言う通りだった。

「まぁ、良いだろう。」
「大変お似合いです。」

鏡越しににっこりとホフマンが微笑みかけてきたが、ゲラルトはすいっと目線を反らした。刀を拾い上げ、ゲラルトはホフマンに背を向ける。

「……私は帰る。」
「かしこまりました。お出口はあちらでございます。」

ホフマンが差したドアに向かって、ゲラルトはすたすた歩きだした。ガチャリとドアノブを回し、ゲラルトは振り返ることなく店を出る。その背中に、ホフマンの声が届いた。

「またのご来店をお待ちしております、ゲラルト様。」

誰が二度と来るか、と内心で毒づいたが、ゲラルトは当初の目的を忘れてはいない。
確かにあの時、追っていた男だけが消えて、その先にいたあの気配はこの店に吸い込まれていった。ホフマンのおよそ常人とは思えない態度も、人の憎悪や怒りを煽り、大事なことを誤魔化すためのものだったかもしれない。

後日、ゲラルトの疑念をなおも深めたのは、ホフマンの店とホフマン自身について、いくら調べてもそれらしい情報が得られないという事実だった。彼自身の経歴も、店の顧客も、果ては店の正確な位置すらも分からない。様々な方面を当たったが、およそそれらしい情報は不自然なほどに見つからなかった。

最早選択の余地はなかった。実際にあの店に出向くしかない。しかし、真っ向から飛び込んだところで、すんなりと口を割るとも思えない。
ゲラルトは熟考の結果、搦め手から攻めることにした。あの店の顧客、あるいは出入りのある人物を見つけるのだ。そのためには、もう一度あの店へ行かねばならない。

ゲラルトは再び、ホフマンの店へ赴き、じっと様子を窺い続けた。
答えを見つけるために。あるいはきっかけを見つけるために。